[翻刻]

            
 
○三代実録[五十]曰、光孝天皇仁和三年丁未七月晦日[辛丑]申時地大震動、経歴数剋震猶不止。天皇出仁寿殿御
紫宸殿南庭。命大蔵省立七丈幄二為御在所。諸司舎屋及東西亰盧舎往々顛覆、圧殺者衆。或有失神頓死者。亥
時亦震三度。五畿七道諸国同日大震、官舎多損、海潮漲陸溺死者不可勝計云々。
○扶桑畧記[廿二]曰[上畧如録文]、今日信乃国大山頽崩、巨河溢流、六郡城盧払地漂流。牛馬男女流死成丘云々。
       私考之、距於今弘化丁未凡九百六十一年矣。然シテ仁和丁未ノ変我国六郡ミナ以テ蕩尽スト。史籍スデニソノ
       地名ヲ不載。歴数僅ニ千年、口碑伝ルコトナシ。偏ニ雖不可徴(チヤウ)ス、按ルニ六郡ヲ貫通スル巨河恐クハ犀千隈ノ
       両流ニ過ズ[岐蘇・天竜・大井・姫川等不及之]。這囘(コノタビ)ノ大変最甚キモノ水内(ミヌチ)更級(サラシナ)ニシテ、上ハ筑摩(ツカマ)安曇(アヅミ)ヲ浸凌シ、下ハ埴科(ハジナ)高井ヲ漂
       蕩ス。概(オホムネ)水災ノ所及殆ト六郡、人畜圧溺セラルヽ者亦仁和ノ厄ノ如シ。今俗以為古今未曽有ナリト。僕コヽニ有
       微志。即ソノ境ニ到リ攀渉スルコト数次シ、後遂ニ是図ヲ製シ、窃ニ家筺ニ蔵シテ聊カ後戒ニ便ゼントス。事倉卒
       ニ出ヅ。精粗マタ見聞ニ任スト云。          (信)中              平昌言識(印)
 
○古伝曰、推古帝十五年大仁[六位官名]鳥臣(トリノオミ)往東国。廻箕野(ミノ)、至科野(シナノ)治水内(ミヌチノ)海、至上毛(カミツケ)
治利根(トネノ)海。乃割戸河滝磐(イハ)、入雁越(カリコシ)開栗柄路及上邑(アゲロノ)路云々。
       按るに、水内郡水内邑ハ夲郡初発の地にして、上古に
 水内の海と聞へしも此辺をいへるにや。今なを北の郡に大沼あまたあり。
 これそのなごりなるべし。この地北は戸隠の峻嶮(けハしき)により、東南に犀川
 帯ひ、西に境川あり、東に澣花(すゝハな)川あり。いはゆる島をなせり。実に水内
 橋の奇巧(たくみ)なかりせは便りなかるべし。おもふに、みぬちの名こゝに出し
 にやあらん。[《アイ》嚢鈔善光寺ノ来由ノ条ニ云、信乃ハ高キ地ナルニ、殊ニコノ郡ノ高ケレハ水落ノ郡也トイヘレド、我国十郡ノ地最厚高ニシテ天下ノ上流タリ。ナンゾ是郡ヲ以テ高シトセン、オボツカナシ]
水内の曲橋[又久米路ノ橋トモ云。歌枕名寄ニ信乃トス。又来目ノ岩橋ナド詠ルハ、大和ノ葛城ニ在ト。拾遺集 埋木ハ中むしばむといふめれバくめぢの橋ハ心してゆけ よみ人しらす]
○日本紀曰、推古天皇二十年自百済国有化来者。其面身皆班白。巧掛長橋、時
人号其人曰路子工。又号芝耆麻呂云々。
○古伝曰、推古帝二十年百済国皈化(オノヅカラクル)人[中畧如紀文]巧(タクミ)掛長橋。令造遣諸国三河国
八脛(ハキ)長橋・水内曲橋・木襲梯(キソノカケハシ)・遠江国浜名橋・会津闇(クロ)川橋・兜岩(カヒノ)猿橋等其外一百八十橋
云々。これらの説出処詳ならざるのよしハ先輩已に考按あれは、今更に
 贅(ぜい)するに及はず。たゞその一二を抄畧してこゝに掲(かゝぐ)るのみ。
此地両山はなハだ狭り犀河の水たぎりて落、かの北涯(きし)の半腹(なかば)を
うがちて酉(にし)より夘(ひかし)へゆく事五丈四尺、曲て南へ大橋をわたす長サ十丈
五尺、広サ壱丈四尺、欄基(らん)の高サ三尺、橋と水との間尋常にて凡
十五丈[或云三十三尋]、碧潭(あをきふち)のみなぎるさまみるに肝(きも)すさまし。
心してゆけとよみしいにしへに今もなをかはらざりける。
 しかるに今災(こんさい)[弘化丁未]三月下旬湛(たゝへ)水既に橋上数丈に及ひ
 橋梁(はしげた)さかしまに浮みながれて穂刈(ほかり)[村名]の水面に漂(たゝよ)ふ。
 四月十三日崩流してゆく処をしらず。[下流奥ノ郡ニ漂着スルモノ]
 [径リ三尺余長サ十丈余、コレソノ橋材ナルニヤ]此頃歩を徒(うつ)してかの遺跡に臨(のそ)み、
 里人についてこれを尋るに、両岸[立石]ことゞく
 崩れ落残水たゝへてなを数丈、再架(ふたゝひかくる)の
 術(てだて)ほとんど絶たりと。嗚呼(あゝ)、陵谷(りやうこく)の変ある
 千載の名蹟こゝにほろびん歟。又をしむ
 へき事ならすや。
 
 
穂高(ホタカ)神社[延喜式神名帳名神大安曇郡穂高邑ニ坐ス]
○古事記曰、綿(ワタ)津見ノ神者阿曇(ツミ)ノ連(ムラシ)等之(ノ)祖ト云々。
○姓氏録曰、安曇ノ宿祢ハ海ノ神綿積(ツミ)豊玉
 彦ノ神ノ子穂高見ノ命ノ後ト云々。
 此地草昧の時水を治め玉ひし神に
 ませは、その勲功(みいさほ)かしこみて仰べし。
 
 
いはゆる川中嶋四郡ハ、はじな、さらしな、
みぬち、たかゐなり。盛衰記東鑑等ニ云
しなの奥郡にして、今も里言おくの郡といふ。