1概要

  明治10年2月に西南戦争が勃発し、他にも士族の反乱や地租改正反対一揆が続き、明治10年は混乱の年でした。石川県士族による大久保利通の暗殺もこの年に起こりました。
 また、明治9年に一方的に通達された区域改正は、県庁の位置をめぐる地域住民間の対立問題を引き起こすことになった。明治9年に筑摩県と旧長野県が合体して成立した長野県の場合、北辺に長野町県庁とされたため、県民のみならず県官も不便を訴え、楢崎寛直権令は明治10年11月に県庁位置変更願いを出した。この南北問題は長野県に長く影を落とした。