秀吉は文禄元年(一五九二)から同二年、慶長二年(一五九七)から同三年の二度にわたり朝鮮に侵攻した。この明(みん)・朝鮮との戦争を文禄・慶長の役ともいう。この役にあたって真田父子も出陣を命ぜられている。そのおりに定められた真田氏の動員人数は、出兵基地である肥前名護屋(佐賀県)在陣衆七百人、朝鮮への渡海人数五百人というものだった。しかし、。真田氏は名護屋城にとどまった模様で、実際の渡海はなかった。