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長野電鉄河東線(現屋代線)開通は大正十一年六月のこと。明治二十年代には鉄道誘致に総反対した町民だったが、近代産業の発展とともに鉄道輸送路の確保が町の商工業者の死活問題となって浮上。製糸家・大里忠一郎らを中心に国会議員・貴族院議会に請願するなど積極的な誘致運動を展開し、悲願かなっての開通。単式一面、島式一面の二面三線のホームと留置線を有する地上駅だった。先の大戦中は、松代大本営建設のための貨物輸送にも利用され、留置線はその際に敷設されたもの。当初駅舎は、すぐ隣の旧マツヤ(スーパー)の辺に建てられる予定だったが、地盤が弱く現在地に移った。旧マツヤ前の道路が飛び抜けて広いのは、そのなごりだという。駅舎の前に建つ「汽車ポッポ」の歌碑は、松代ゆかりの作曲家草川信の曲。