教如消息(石山籠城の決意をつぐ)

教如消息(石山籠城の決意をつぐ)


教如消息(石山籠城の決意をつぐ)(きょうにょしょうそく)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 教如(光寿/1558~1614)は顕如(1543~92)の子、本願寺の第12世。文禄元年(1592)、顕如の跡を継いで門主となったが、まもなく隠居を余儀なくされた。しかし、その後も実力を保ち、やがて徳川家康に認められて、慶長8年(1603)、東本願寺を設立させた。
 本史料の内容は、天正8年(1580)の本願寺の大坂退去に際して、顕如は既に雑賀(和歌山市)に移っていたが、自分はあくまで大坂に踏み止まることを決意したと述べ、「万端頼み入るばかり」と結んで、越中の坊主衆・門徒衆に支持を求めている。なお、4月上旬から5月下旬にかけて、能登・近江・美濃・甲斐など各地の門徒に同文または同趣旨の文書が届けられており、教如が多数の支持を得ようと努力していた様子がうかがえる。また、6月9日付けの勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)宛ての文書では、越中・加賀に使者を派遣する、と述べているが(勝興寺文書〈影写本〉)、これも教如への同調を訴えるための使者であろう。
 この後、大坂に居座る教如に対して信長が武力を発動したため、教如も考えを改めざるを得なくなり、ついに大坂からの退去に同意して、8月2日に雑賀に移ることになる。なお、上述のように教如が各地の門徒に支持を求めたことから、教如を中心とする派閥が形成され、これが東本願寺成立の遠因になったといわれる。

(鴨川達夫)


 (ウワ書)
 「越中 
    惣坊主衆中
           教如
    門徒衆中      」
 急度取向候、今度きっととりむかい候、このたび
 當寺信長一和之儀、とうじのぶながいちわのぎ、
 被應 叡慮、すてにえいりょにおうぜられ、すでに
 當寺信長へ可被相渡義とうじをのぶながへあいわたさるべきぎに
 候て、御門主にハ雑賀へ候て、ごもんしゅにはさいかへ
 御退出之事候、然者即ごたいしゅつのこと候、しからばすなわち
 當寺に残り可相拘思とうじにのこりあいかかうべしとおもい
 立如此候、就其、此度相たちかくのごとくに候、それにつき、このたびあい
 續候樣に門徒之輩者、つづき候ようにもんとのともがらは、
 抽粉骨馳走候ハヽ、可爲ふんこつをぬきんじちそう候はば、ぶっぽう
 佛法再興候、めつらしさいこうたるべく候、めずらし
 からぬ事なから、法儀心からぬことながら、ほうぎをこころ
 にかけられ信心決定にかけられしんじんけつじょう
 候て、稱名念佛無由斷候ハヽ、候て、しょうみょうねんぶつゆだんなく候はば、
 可爲肝要候、万端たのミかんようたるべく候、ばんたんたのみ
 入計候、穴賢/\/\、いるばかりに候、あなかしこあなかしこ、
    (天正八年)
   五月十五日 教如(花押)
    越中
       惣坊主衆中
       門徒衆中

(鴨川達夫)