前田利勝禁制

前田利勝禁制


前田利勝禁制(まえだとしかつきんぜい)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 前田利長が勝興寺に交付した禁制である。「利勝」は利長の幼名。
 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が倒れると、利長は父・利家とともに羽柴秀吉に従った。一方、同じ信長配下にあった佐々成政(1539~88)は柴田勝家につき、同12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄方につく。越中では佐々と前田が対立する構図となるが、翌年8月、成政は秀吉に降伏した。成政の領地は秀吉によって新川一郡に削られ、砺波・射水・婦負の三郡は利長に与えられることとなり、利長は守山城に移る。その後、利長は治安維持を図るため、本史料によって勝興寺寺内での陣取り行為、武家奉公人の出入り、乱暴狼藉行為を禁止した。また門前市についても以前と同じように安堵するなど、戦時から平時への転換を図ろうとしていたことがうかがえる。

(高田克宏)


【参考文献】 『高岡の名宝展』高岡市美術館,平成21年(2009)
特別展『秀吉 越中出陣-「佐々攻め」と富山城』
富山市郷土博物館,平成22年(2010)


    禁制   古國府勝興寺きんぜい ふるこふしょうこうじ
 一、寺内陣取免許事、じないじんどりめんきょのこと、
 一、當寺内へ奉公人不可出入事、とうじないへほうこうにんでいりするべからずこと
 一、古國府分不可伐採竹木事、ふるこふぶん ちくぼくきりとるべからずこと、
 一、寺内へ立入、非分之儀申懸族於在之者、じないへたちいり、ひぶんのぎもうしかくるやからこれあるにおいては、
   留置可有注進事、りゅうちしちゅうしんあるべきこと、
 一、當町市日如先々可相立事、とうちょういちび せんせんのごとくあいたてべきこと
   右條々堅令停止畢、若違犯之輩みぎのじょうじょう かたくちょうじせしめおわんぬ もしいはんのやから
   於有之者、忽可處嚴科者也、仍如件、これあるにおいては たちまちげんくわにしょすべきものなり よってくだんのごとし
    天正拾参閏八月 日 (前田)利勝(花押)

(佐伯安一)