前田利長消息(慶長十三年)

前田利長書状 慶長13年(1608)


前田利長消息(まえだとしながしょうそく)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 徳川家康の教如取立て、本願寺の東西分立が進められた。一方の西本願寺門主准如と江戸幕府との関係は微妙であった。そこで准如は、幕府の吉凶事や将軍の仏事の際などには自ら駿府や江戸に下向した。それは、以後の歴代門主が継職の場合や幕府有事の際に江戸下向する先例となった。慶長十三年(一六〇八)七月、駿府(家康)・江戸(秀忠)より帰洛する際に、准如は北国街道を経て越後より入国し、横山(入善町)、魚津、水橋を通って富山に入った。准如歓迎に二〇~三〇万人が参集したともいわれる。翌十四年三月に火災により城を失うまで富山に在城した前田利長は、従来から准如に好意的であった。准如の日程などについては事前に勝興寺から伝えられているので、それに従って青山佐渡守に歓迎させたり、また本書状にあるように、神尾図書助に通路や橋の整備をさせ、また富山城中へも招いている。次いで七月十九日奥村長兵衛書状が宿舎準備について伝えており(『雲竜山勝興寺古文書集』六八号)、さらに金沢を経て、帰洛した。

(久保尚文)


 (端裏ウワ書)
「 〆  つ志よ   はひ   
 (切封)  (図書)  (羽肥)
         まいる  」
 
     せうかうしへも勝興寺へも
     心へて可申く候、こころえてもうすべく候
 せうかう寺よりの書中勝興寺よりのしょちゅう
 ミ申候、ほんもんせき見もうし候 本門跡
 江戸より此すち御のほり江戸よりこの筋お登り
 候つる由候、みちはし候いつるよしに候 道橋
 にて申しつけ度候、にてもうしつけたく候
 とうぜうへも御たち当城へもお立ち
 よりあるへきよし、寄りあるべきよし
 かたしけなき事候、汞けなきことに候
 なおこれより可申候、なおこれよりもうすべく候
    かしく、
 七月十日

(佐伯安一)