中川宗半寄進状

中川宗半寄進状


中川宗半寄進状(なかがわそうはんきしんじょう)     [目録を見る]   [ 宝物解説へ ]
 中川宗半(1562~1614)は、本名光重、通称清六。(巨海斎)宗半を号していた。信長家臣であったが、前田利家の娘・蕭姫を妻として利家に仕えた。相当知られた茶人だったらしく、一時は豊臣秀吉の御伽衆に加わったこともある。譴責を受けたこともあったが、利家配下に戻って増山城(砺波市)を守った。しかし、文禄2年(1593)当時は増山城を妻の蕭姫が預かっているなど(『砺波市史』資料編1)、不明な点が多い。
 この寄進状には異筆で慶長16年(1611)と年記があり、退老して後に宗半と号した中川光重が記したものであることがわかる。しかし宛名の「まつ」とは誰であろうか。宗半周辺の「まつ」という女性にはまだ江戸から帰国していない利家夫人の芳春院があるが、そうしてよいだろうか。出家を遂げた最晩年とはいえ、姑にあたる人を実名だけで記したかどうか、疑問は残る。また合力として寄進される300石は実に大きなものである。仮に「まつ」の化粧料だとするならば、その寄進状が何故勝興寺に伝わったのかがわからない。あるいは「まつ」は勝興寺周辺にいる別の有力女性なのであろうか。そうした点も不明である。

(久保尚文)


     已上いじょう
  (合力)
 かうりょく
 として
 三百石まいらせ候、
 いく久しく
  (知行)
 ちきやう候やうニ
 といたみ入
 まいらせ候、
    かしく、
         (中川光重)
        宗はん
 (異筆)
 「慶長十六年」
   五月廿五日(花押)
   まいる まつ
         申給へ

(佐伯安一)