勝興寺は、近世統一政権の一分肢である佐々成政の配下である石黒成綱の手によって、天正九年(一五八一)焼き討ちを懸けられ、焼亡した。住持であった顕幸は、紀伊鷺森にいた顕如光佐の元に身を寄せ、再起を図った。越中では、賤ヶ岳の戦いで敗戦しながらも、越中一国を安堵された佐々成政が、天正十二年(一五八四)の小牧長久手の戦いでは、再び秀吉に敵対し、織田信雄・徳川家康が秀吉と和議を結ぶとみるや、冬の立山を超えて浜松に赴き、再出陣を促した。成政はこの浜松行きの直前に、勝興寺に対して、寺基の回復を許したのである(〇〇〇-二一)。これは、越中において大きな力を持つ真宗門徒集団を勝興寺によって掌握させ、浜松出張中の領国の安定を図ったものと考えられる。
この勝興寺再興の取り扱いは、守山城主神保氏張が担当し、守山城下に臨時の寺地が与えられた(〇〇〇-二二)。天正十二年十二月には、神保氏張が勝興寺に禁制を発しており(〇〇〇-二三)、翌天正十三年三月には、一宮(気多神社カ)の古府地内での所領権主張を裁定している(〇〇〇-二四)ことから見て、再興間もない勝興寺は、実質的に神保氏張の保護下にあったといってよい。
こうした勝興寺の佐々成政・神保氏張による保護体制は、羽柴秀吉の越中出陣によって終焉を迎える。小牧長久手の戦いで反秀吉の旗幟を鮮明にした佐々成政であったが、前田利家との抗争に敗北し、秀吉が越中に出陣するに及んで、成政は降伏し、越中新川郡一郡のみを残して所領は没収され、越中西三郡は前田利家の嫡男前田利長に与えられた。佐々成政や神保氏張は、大坂居住を命ぜられ、越中の政治地図は大きく書き換えられたのである。