(二)触頭勝興寺

 勝興寺は、文明三年(一四七一)本願寺八世蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山に創建した土山御坊に始まり、その後幾度か移転し、天正十二年(一五八四)佐々成政から還住を許され、神保氏張より寄進を受け移転した地が現在の勝興寺である(〇〇〇-二一二二)。勝興寺は本願寺と血縁を結び、早い時期より強い勢力を持っていたが、永禄二年(一五五九)本願寺十一世顕如が門跡に列せられたのに続き、翌年勝興寺顕栄が一門衆として院家の勅許を得ると、それ以来越中の真宗寺院で同寺に並ぶものがなくなり、戦国期には越中における一向一揆の拠点寺として力を振るっていた。
 一向一揆の盛んな地であった加賀・能登・越中へ入部した前田氏にとって、一向宗対策は大きな課題であった。人心掌握のため、領内の有力寺社に対して寺社領を寄進し、安堵(保証)したり、数々の特権を与えるなどの施策を行っていくことになる。当然越中を代表する真宗寺院である勝興寺に対しても、天正十三年(一五八五)閏八月、二代藩主前田利勝(利長)は禁制を出し、狼藉を禁じて、同寺と寺内町を保護している(〇〇〇-二九)。また天正十六年十月、一〇〇俵の寺領も寄進している(〇〇〇-三八)。
 さらに、慶長二年(一五九七)十月十八日、前田利長の家臣前田長種が越中諸寺門下の諸道場(寺院)に宛て、五か条の申渡状を出しているが(〇〇〇-六一)、その第四条に、
  一、国中諸坊主、従勝興寺被申触候時、及兎角不罷出仁者、自此方急度可申付事
とあるように、浄土真宗の諸道場に対し勝興寺の申し触れに従うよう命じている。則ち慶安元年に寺社奉行が設置され、触頭制度が定められるが、それよりも約五〇年も前に勝興寺に対し、実質的な触頭の役割を申し付けたものであり、勝興寺に本願寺門下に対する最高の権限を付与したことがわかる。
 その後三代藩主前田利光(利常)は、元和四年(一六一八)十二月に二五石の寺領を加増した(〇〇〇-九四、合計七五石)。正保三年(一六四六)四月、西本願寺十二世准如の六男円周良昌(光昌院)を住職に迎え、翌年前田利常から寺領一二五石の加増を受け、同寺の寺領は先知と合わせ二〇〇石となった。慶安二年(一六四九)二月には、利常の養女つる(廉正院)が勝興寺円周のもとに入輿した(化粧田として二〇〇石拝領、(〇〇〇-一〇三)。このように、勝興寺は加賀藩前田家や本願寺及び公家との強く結び付きを深め、越中の浄土真宗西方の触頭として、越中四郡全与力寺に対する支配力を一層強化していくのである。
 先に述べたように、加賀藩では慶安元年に寺社奉行を設置し触頭を定めたが、翌慶安二年(一六四九)三月三日、井波瑞泉寺と八尾聞名寺が、本願寺の坊官下間因幡宛にキリシタン吟味の請書を提出している(〇〇〇-一〇四)。このことは触頭としての勝興寺が中納言(前田利常)の意向を受け、触下の寺院に対し、キリシタンの穿鑿を指令してきたものであり、キリシタン吟味に対し、触頭を通じ宗門の組織が積極的に用いられている一例を示すものである。
 貞享二年(一六八五)の「寺社由緒書上」から越中に関わる主な宗派の触頭を見ると、曹洞宗は瑞龍寺(高岡)、真言宗は明王院(金沢)、浄土宗は如来寺(金沢)、日蓮宗は妙成寺(羽咋)、浄土真宗西方は勝興寺(古国府)、東方は善徳寺(城端)・瑞泉寺(井波)、修験道は願行寺(金沢)などが触頭となっている。東方の場合、当初善徳寺一か寺が触頭であったが、慶安二年六月瑞泉寺が東方に帰参したため、同十月より善徳寺と瑞泉寺が共に越中の真宗東方の触頭となり、隔月で交互に勤めることになった。真宗西方の触頭である勝興寺は、射水郡一〇八か寺・砺波郡五八か寺・新川郡七五か寺、合計二四一か寺が触下の寺院と成っている。なお、富山藩領の真宗西方の触頭については、富山藩内にある勝興寺末寺の浄誓寺と妙福寺を勝興寺の役寺(勝興寺の出張機関)に任じ事務を代行させている。それは勝興寺が越中全域の浄土真宗西方の触頭ではあったが、これは寺法の面だけであって、国法については他藩に属する富山藩領には支配が及ばなかったためである。
 このように寺社奉行設置とともに各宗派の触頭が任命された結果、国法(藩)は藩寺社奉行-触頭-末寺と下達され、同じく寺法(本山・教団)も本山-触頭-末寺と下達、あるいは上申されることとなった。しかし、実際問題として、触頭が末寺に直接的に寺法や国法を触れることは量的にも時間的にも大変困難なことである。そこで、地域的にまとまりのある組が組織された。「三州寺号帳」(加越能文庫)によると、勝興寺触下の寺院は二五七か寺二一組から成り、一番少ない組で四か寺、一番多い組で三〇か寺で、一組平均一二か寺と成っている。
 江戸時代に入って真宗西方の触頭は、録所・触頭・触口に分化するが、勝興寺は、江戸築地御坊・紀伊鷺森御坊・越前福井御坊・河内久宝村顕証寺・播磨亀山本徳寺・長門萩清光寺と並び、全国七録所の一つとなり、触頭より大きな権限が与えられていた。このように勝興寺は、江戸時代以降越中における浄土真宗西方の触頭として近代に至るまで寺勢を保持していったのである。

(袖吉 正樹)