1
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この年
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1830
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▷肥前東松浦郡浪瀬村で焚石発見,採掘をはじめる.出炭高1ヵ月およそ24万斤~25万斤(安政6年~万延1年頃よりようやく盛大となり1ヵ月の出炭高180万斤を越える). 149
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2
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この頃
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1830
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■平戸藩北松浦郡中里村草刈太一左衛門(草刈新田の開発者)は,石炭仲買商から石炭輸送業に転じて成功.その後,中里・相浦・小佐々各地の石炭採掘に進出. 184
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3
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天保二年.4.6
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1831/4/6
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〔2.24〕 佐賀藩,多久領別府山採掘の生炭を領内で売りさばきかね,試みとして肥後へ船1艘分の旅出が許可される.〔2.27〕炭山仕法制定の上,運上銀賦課の旨,小物成方より俵銭方へ通達. 298
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4
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天保二年.4.12
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1831/4/12
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〔2.30〕 佐賀藩多久領屋形は,同領別府山石炭旅出分の運上銀賦課に関連して,本藩より従来納付しなかった運上を賦課される懸念もあり,別府山石炭の採掘をさし留め,〔3.4〕御屋形で掘り方改正を評議. 298
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5
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天保二年
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1831
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〔4.-〕 阿州撫養浜・斎田浜,播州赤穂西浜・東浜,備後富浜・吉和浜・天女干浜,芸州竹原浜・生口浜,備後松永浜・野島浜の浜人間で,塩の生産調整を協議すること,塩ならびに石炭相場を時々相互に連絡することを申し合わせる. 4
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6
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天保二年.10.8
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1831/10/8
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〔9.3〕 長門宇部村百姓惣代45人連署して,村経費収支明細書の公開,石炭運上の廃止など8ヵ条を領主福原氏へ提出. 32/551
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7
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天保二年.12.5
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1831/12/5
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〔11.2〕 播州赤穂藩において塩浜に対する定法令達.文政6年から石炭焚きになったが,経験が浅いため煙の逆流を防ぐなどの諸注意を与え,問屋が買付けの時欠石なきよう配慮.また石炭を塩浜人が買入れの時,浜人・問屋を立会わせ,品質・値段などを石炭問屋にまかせないようにする. 4
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8
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天保三年
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1832
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〔3.-〕 阿州斎田浜,播州赤穂浜,豫州波止浜,備後松永浜,芸州竹原浜・海老浜,備後肥浜・吉和浜・富浜,防州三田尻浜の浜人間で,塩の生産調整協議の際,塩・石炭の相場を時々通報することを申合わせる. 4
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9
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天保三年.10.22
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1832/10/22
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〔9.29〕 佐賀藩多久領北方山狩谷山石炭採掘に関して,5年間正銀6貫目ずつ運上銀を徴収してきたが,鉱害を生じるなどのこともあり,6月限りで採掘を禁止.請元中よりの嘆願により,閏11月まで採掘を許可.その後は売りさばきのみするよう請元へ厳達. 298
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10
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この年
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1832
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▷肥前東松浦郡平山下村字ウバノツクラおよび丸石にて,同村小野又左衛門石炭発見(ウバノツクラは'79年12月開坑,稼行人小野勝平,'81~'83年休業.丸石は'80年11月開坑,稼行人小野芳平,出炭高,'81年3万斤,'82年9万斤,'83年11万斤). 153
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11
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この頃
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1832
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▷肥前有田の正司考祺,≪倹法富強録≫5巻を著わす.この中で,佐賀藩では石炭は三池・平戸から来るが,その価額は少額で,また国家大用の品でないから他藩から入ってきても妨げにならないと述べている. 680
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12
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天保四年.4.27
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1833/4/27
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〔3.8〕 播州赤穂藩において,<石炭取締及問屋礼銀之事>が触れ出され,薪問屋は石炭問屋となり,石炭取締りと礼銀差上げを願い出る. 4
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13
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天保四年
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1833
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〔4.-〕 播州赤穂塩田の主な入津炭は,岩ケ浦炭・本浦炭・唐津炭・松島炭・柿ノ浦(蛎ノ浦ヵ)炭などの九州炭,運搬船のうち他所船は波止浜・備前児島・周防・伊予・麻里府・上ノ関・豊前・平戸などの船を使用. 4/127
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14
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この年
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1833
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▷安芸国豊田郡中野村塩浜において,薪問屋鍵屋壮平,石炭問屋土井又五郎に代り石炭問屋を引受け.弘化4年又五郎の孫只助より問屋職の返還を要求.嘉永1年石炭問屋を村方が引受け,問屋事務は組頭・長百姓・十人頭等5人で引受け,加地子金年13両を村方に入れる(以後,石炭値段高騰のため文久1年より15両,元治1年より25両,慶応2年より文久2年にさかのぼり40両となる).〔嘉永4年6月〕村方石炭問屋の不正事件のため,浜人・問屋等関係者一同豊田郡役所に呼び出され取調べ,〔明治4年3月〕落着. 717
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15
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この年
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1833
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*播州赤穂西浜の石炭問屋柴原家の3月~11月の石炭受入れ643艘,1艘分の問屋上納銀1匁5分,計964匁5厘(分ヵ). 4
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16
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天保五年.4.27
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1834/4/27
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〔3.19〕 防州三田尻浜,阿川斉田浜,播州赤穂浜,芸州竹原浜,備前仁方浜・海老浜,備後松永浜・天女干浜・天女浜・富浜・吉和浜の浜人21人,厳島に集まり,塩・石炭の相場を時々通報しあうことをきめる. 730
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17
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この年
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1834
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▷周防三田尻浜では石炭購入の際,以前は1振ごと掛改めて受取っていたが,問屋・炭船の者に不都合あり,この年より上荷船に例木(ママ)を打ち,100振・150振を改め購入するようになる. 730
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18
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この年
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1835
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▷柳河藩士小野寛隆,筑後平野山の地を買い,大谷・本谷・満谷・梅谷・西谷・炉谷の6ヵ所に開坑. 436
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19
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この年
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1835
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▷讃岐の塩田,松葉焚きを改めて石炭を試用,好結果を見ず.漸次改良を加え,天保12年にはすべて石炭を使用. 37
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20
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天保七年.8.12
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1836/8/12
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〔7.1〕 嶋原藩小浜村亀八,肥前東松浦郡梶山村石炭山元方幸左衛門山掘子として従業中.〔6.29〕出水の際,石土場の石炭が流失しないよう片付けた後,川へ泳ぎ出して行方不明となった旨,梶山村庄屋忠蔵・同村仁平治より御代官役所へ届出る. 516
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21
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この頃
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1836
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■肥前山代郷より防州三田尻塩田への旅出石炭は,〔文化10年8月~11年8月〕4000盃(百斤入)にはじまり〔文政初年〕6000~9000盃,〔文政5年〕1万盃,〔文政7年〕2万盃,〔文政8年~天保7年〕毎年2万5000盃. 26
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22
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この年
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1837
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▷肥前山代郷より防州三田尻塩田への旅出石炭5万盃に急増(天保10年をもって杜絶). 26
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23
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天保九年.3.6
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1838/3/6
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〔2.11〕 佐賀藩多久領焼米村石炭山で,横辺田郷下小田村和三郎と豊前者新吉が口論,和三郎は頬に鶴嘴をうちかけられて気絶,〔2.20〕死亡.新吉は捕縛中何者かが逃亡させる.掛り村役は石炭掘方の年限更新にさしつかえることを恐れて無届内済にしたが,風聞たち事情聴取さる.〔3.17〕川浪瀬左衛門より請役所・当番目附衆へその旨書付提出. 298
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24
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天保九年
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1838
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〔10.-〕 佐賀藩多久領焼米村より同領御屋形に対し,石炭採掘再開を出願.以前より炭質悪く焼ガラにできぬため旅売していたが,中断していた旅出(生炭4万樽)を再出願,冥加銀として定銀240目負担. 298
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25
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天保一〇年
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1839
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〔12.-〕 佐賀藩多久領山方役,御屋形へ,文政11年大風災害後の竹木仕立について,近年凶作続きで百姓の出夫困難なため,売山代・石炭運上による日雇仕組方を上申. 298
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26
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天保一〇年.4.26
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1839/4/26
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〔3.13〕 佐賀藩諫早領長尾村幸之介は,石炭山稼として,昨年より唐津領梶山村広作石炭山で従業中,当年正月より持病を再発したので,国元までの継送りとなる. 516
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27
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天保一〇年
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1839
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〔3.-〕 肥前山代郷において,石炭山一式御仕組が行われ,これまで山代1年1ヵ所につき銀30匁ずつ上納してきたのを改正し,炭1樽につき冥加銀員数をきめられたので山元の仲間中集まり評定.炭立の厚薄,船場の遠近もあるので,数年掘方・試掘の場所22ヵ所17人には2文~5文の冥加銭段取で納めるよう出願. 26
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28
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天保一〇年
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1839
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〔9.-〕 佐賀藩多久領焼米村石炭山,東低部を掘り尽し,西小谷北部に新間歩を出願.竜王堤へ悪水流入の危険がなければ見分の上許可する旨口達. 298
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29
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天保一〇年
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1839
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〔11.-〕 安芸賀茂郡竹原塩浜において,石炭使用の代償として,薪積出しの奥筋8ヵ村に従来渡していた償銀を36貫目渡し切りで以後償銀手切れ,双方和談成立(文化2年竹原塩浜に石炭導入以来度々浜方と奥筋村々紛糾.文化15年広島藩の裁定で毎年奥筋8ヵ村に銀7貫920匁償銀を出すことで,石炭使用全面許可). 717
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30
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この頃
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1839
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■安芸豊田郡中野村塩浜にて石炭焚きに全部きりかわる. 717
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31
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この年
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1840
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▷佐賀藩武雄領で石炭業を同領の直営事業とし,煉瓦製造用として成瀬土場から積み出す(天保初年,花島から永島にわたる野間山に開坑). 700
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32
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この年
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1840
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▷湧水の多い長門中宇部の竪坑で,亀浦の人向田七右衛門・九十郎兄弟が南蛮(なんば)と称する水汲機械を発明100尺以上の掘さくが可能となる.のち長州南蛮と称して九州にまで普及. 31
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33
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この年
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1840
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▷周防三田尻宰判西ノ浦柳屋浜の塩田小作で,生産費15貫245匁6厘のうち石炭代4貫729匁7分4厘,労賃とともに高い比率(31%)を示す. 366
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34
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この頃
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1840
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■唐津炭田において,石炭問屋の買いたたきが行なわれ,石炭山は窮迫. 44
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35
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天保一二年
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1841
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〔閏1.-〕 佐賀藩多久領にて,久松清兵衛与(くみ)深町庄三郎,焼米村石炭運上不埓につき,出炭分を封印中,庄三郎手代進六勝手に封印を破り,下し方の者共数人にて浜出し,数百樽を中山菊太郎受け取り,同領当役より庄三郎に呵申付け科銀2枚,進六に永逼塞を申付ける. 298
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36
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天保一二年.4.5
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1841/4/5
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〔2.14〕 佐賀藩多久領において,焼米村善七外5人,農業の余力をもつて同村の石炭山を世話中,間歩普請と出水に存外の出費のため,元方そのほかが逃げ出し,諸筋借金かさみ,佐賀柳町武兵術に元利25両の借用手形を出したが返済不能のため,上訴となり同領当役より御呵り. 298
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37
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天保一二年
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1841
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〔8.-〕 広瀬淡窓,旭荘の浪華に帰るを送って赤馬関に遊ぶ.その日記に<魚臭及び石炭の気,満街鼻に薫ず>と見えている. 749
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38
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天保一二年
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1841
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〔8.-〕 肥前西松浦郡久原村字山ノ神にて開坑,稼行人同郡同村の中原善蔵(天保14年より安政6年頃まで盛況.万延1年より次第に衰え,慶応3年再興.明治1年~同6年の平均出炭高322万5600貫目). 153
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39
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この年
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1841
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▷周防三田尻浜(都濃宰判平田開作浜)の塩田自作で,塩業生産費12貫752匁9厘2毛のうち石炭代5貫148匁を占め.労賃とともに高い比率(40%)を示す. 366
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40
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天保一三年.8.17
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1842/8/17
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〔7.12〕 佐賀藩多久領長尾村新太郎は,同領志久村清水谷石炭山元方野口弥三右衛門らより相談をうけて.過分の炭を採掘,数艘廻船して積み出し,その上封印の炭を数拾樽売渡した罪により,新太郎は閉戸,野口弥三右衛門は閉門の上,科料銀3枚に処せられる. 298
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41
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天保一三年.9.3
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1842/9/3
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〔7.29〕 佐賀藩多久領下多久村磯右衛門は,同領志久村清水谷石炭掘方を出願して間もなく掘方さし留めとなり,そのままでは佐賀表借銀の返済に不都合が生ずるので多量に採炭し,御叱・閉戸・科料銀3枚に処せられる. 298
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42
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天保一三年
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1842
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〔11.-〕 肥前東松浦郡平山上村糸作,石炭採掘を出願. 44
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43
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天保一三年
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1842
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〔11.-〕 肥前東松浦郡平山上村政吉・押川重太郎・同郡相知村理平ら,門地に炭置場設置のため,110匁村方へ納付. 44
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44
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この年
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1842
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▷阿片戦争('40年~'42年)の影響により英艦,長崎の中国船・蘭船より盛んに炭塊を購入. 357
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45
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この年
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1842
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*長門舟木宰判における出炭高,東高泊村および有帆村201万2592貫,逢坂村8万貫,舟木市村3万2000貫,東須恵村30万4000貫,際波村25万貫. 32
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46
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この頃
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1842
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■唐津藩,炭方役所を置く. 385
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47
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この頃
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1842
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■肥前東松浦郡相知村の炭坑,ようやく盛んになる(寛政3年発見.安政5年~6年の1ヵ月出炭高200万斤を下らず). 149
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48
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天保一四年.1.6
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1843/1/6
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〔12.6〕 佐賀藩多久領惣次郎・卯兵衛両名は同領高木川内石炭運上の月割納を数ヵ月分前納を怠り大仕切りの時期になって滞納金23両のうち15両だけの年賦を出願したが許されず,無調法の廉により逼塞を命ぜられる. 298
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49
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天保一四年.9.22
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1843/9/22
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〔8.29〕 佐賀藩多久領長尾村秀司は,丑年秋(天保12年ヵ)志久・古賀両津元米請取りの際,似せ筈(偽の米切手)数拾石を作り,過分の金子を不正に取得,その他炭山での不正などもあり,永牢舎を申し付けられる. 298
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50
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この年
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1843
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▷讃岐林田地方塩田のうち,高屋浜,燃料として石炭を焚きはじめる. 691
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