筑豊石炭関係(天保1~明治20)

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No 年月日表記 西暦 できごと 備考
1 天保一年.4.9 1830/4/9 〔3.17〕 福岡藩中老斎藤蔵人,拝領建山内での焚石掘出しを出願. 135
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2 天保一年 1830 〔3.-〕 遠賀郡楠橋村庄屋・組頭より,同村井手原山に焚石丁場を出願し許可されたが,その後同村内焚石掘り方の熟練者の意見をいれ,古間歩開口の方が能率的とわかり,田畠にも障害がないところから,山奉行へ出願許可の一部変更方を遠賀・鞍手御免方役所へ再出願.〔閏3月〕許可. 525
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3 天保一年.5.26 1830/5/26 〔4.5〕 文政11年の凶作により,遠賀・鞍手・嘉麻・穂波4郡の百姓困窮し,このため旅出焚石仕組の焚石を4郡に渡し相応の銭高を非常備益へ出納したが,川近くの焚石丁場は掘り尽くし,遠隔の焚石丁場の採掘で利益なく山元困窮のため,石炭の旅売を大庄屋より出願.天保1年から2ヵ年許可される. 50
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4 この頃 1830 ■筑前4郡で石炭採掘方法・販売組織・運送・収益分配・資源濫掘などにつき紛争頻発. 104
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5 この頃 1830 ■筑前の石炭年間出炭高6000万斤~7000万斤. 104
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6 天保二年.4.27 1831/4/27 〔3.15〕 福岡藩御筋目沢村角大夫,知行所宗像郡池田村抱壱作畠より,天保2年~同6年の5年間,これまで通り焚石を掘り出したい旨出願. 50
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7 天保二年.7.26 1831/7/26 〔6.18〕 田川郡金田村庄屋,人見山にて採掘した石炭のうち荒塊炭80万斤を若松へ積下し販売のため,舟運許可を筋奉行へ願い出,許可され,大庄屋の証明にて積み出す. 527
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8 天保二年 1831 〔6.-〕 田川郡金田村庄屋より,同村人見山にて採掘の売残り石炭を焼立て石ガラとし,6000俵を小倉表へ積廻し販売したい旨,筋奉行へ出願(利益は川筋の修理費にあてる). 527
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9 天保二年.8.23 1831/8/23 〔7.16〕 川筋積下しの人見山焚石,草場番所にて差留めとなる.大庄屋または上野七左衛門の証拠にては通舟を認めず(金田茂五郎の証拠によってのみ通舟を認めるという理由から).2日後代官出郡の上折衝,差留めの舟は一応通過を許可され,今後のことは協議することで落着. 569
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10 天保二年.8.25 1831/8/25 〔7.18〕 小倉藩,石炭採掘に関しこれまでよりもきびしい規制措置を講じ,出願許可制を採用. 569
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11 天保二年.8.26 1831/8/26 〔7.19〕 焚石山につき.田川郡金田手永のうち金田・糸田・河原弓削田・宮尾・後藤寺5ヵ村へ,従来の石間歩札にかえて納差札を発行,採掘許可.但し,積出しは役筋へ許可を出願のこと. 569
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12 天保二年.9.11 1831/9/11 〔8.6〕 焚石の通舟だけは金田茂五郎証拠によりその他物品の積下しは,従来通り上野七左衛門証拠によると決定. 569
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13 この年 1831 ▷遠賀郡修多羅触御用会において,御救渡の焚石益銭10貫目を村々へ1割の利付で貸付け,当冬取上げ修多羅触備とすることを決定. 128
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14 この頃 1831 ■石炭が鍛冶業に使用されはじめ,九州から大坂へ盛んに積み出される.また,硯蓋・すり墨の代用などの需要も生ずる. 104
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15 天保三年.1.17 1832/1/17 〔12.15〕 遠賀・鞍手両郡よりの焚石旅出年限は天保2年までのところ,同3年3月まで延期方を郡代へ出願. 50
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16 天保三年.1.31 1832/1/31 〔12.29〕 鞍手郡中泉村仁助,大庄屋加藤仁助へ斤先掘の借入・返済の覚書を提出. 605
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17 天保三年.3.8 1832/3/8 〔2.6〕 嘉麻・穂波両郡大庄屋より,焚石・石炭の旅出を5年間(天保3年~同7年)延期方出願. 50
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18 天保三年.9.28 1832/9/28 〔9.5〕 中津藩宇佐郡大根川村出身信四郎(63歳)は,25年来筑前相田伊岐須の焚石山で稼働のところ,〔8.25〕飯塚宿に石炭売りに出て罹病,宿村継にて国元へ送還方出願,聞き届けとなる. 527
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19 天保三年.11.25 1832/11/25 〔11.4〕 田川郡筋奉行,炭方役人より御船方を経由,場船株を従来の3人から5人へ増員方届け出があったため,上野および金田両手永大庄屋に,両手永の水主・小頭・上乗等につき,異議の有無調査方を命ずる. 527
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20 天保三年 1832 〔閏11.-〕 田川郡金田手永内の石間歩代として,金田村7匁,下糸田村7匁,河原弓削田村7匁,宮尾村7匁後藤寺町3匁,計31匁を上納. 569
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21 この年 1832 ▷遠賀・鞍手両郡大庄屋8人は,焚石御仕組の苦労銭として年間六銭300目の下付を,郡代役所へ願い出る. 82
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22 この年 1833 ▷飯塚宿,人馬仕組差支えのため,5触より焚石益銭のうち880目を借り受け急場をしのぐ. 433
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23 この年 1833 ▷享保17年の蝗害による大損耗にかんがみ,焚石御仕組益銭のうち六銭233貫871匁9分4厘を除蝗用油備えにあてたい旨,遠賀・鞍手両郡大庄屋より郡代役所へ願い出て許可される. 82
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24 この年 1833 *草場川口通行の運上銀,石炭100斤につき銭8文,石炭ガラ100俵につき銭300文.なお,米1石につき札1匁5分,櫨実100斤につき銭20文,生蝋100斤につき銭50文瓦100枚につき銭20文,鷄卵1篭(500個入)につき銭20文,樫炭100俵(1俵5貫目入)につき120文. 527
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25 この年 1833 *天保4年焚石益銭油備え遠賀・鞍手両郡立分け高,銭総高六銭141貫716匁95,両郡総人高6万4640人で割ると1人当り2匁1924. 605
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26 この頃 1833 ■田川郡の川舟積下し諸産物は米・雑穀・石炭・石炭ガラ・櫨実・生蝋・板類・枌板・材木・瓦・鷄卵・樫炭・楮皮・竹類・牛馬皮骨・紙・茶・煙草・藍など. 527
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27 天保五年 1834 〔6.-〕 遠賀郡楠橋村焚石山元嘉平・惣助の両人は,積下し残り焚石100万斤に白土付着,売りさばき困難のため,益銭のうち8文の用捨方を焚石会所へ出願.値下げによる売りさばきをはかる. 303
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28 天保五年 1834 〔6.-〕 楠橋村童子ケ門堤仕掛水取りのため,壱本木より浮殿まで300間余,壱本木焚石丁場内の掘り通しを許可され成就.そのため丁場の出水甚だしく,しかも品質不良,売り捌き困難.はじめ掘方元請の者は中止しようとしたが,村方より弁償を約して継続.村方より丁銭90貫文を負担するはずのところ切立て困難. 303
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29 天保五年 1834 〔6.-〕 楠橋村壱本木の焚石丁場不良につき,同村牛渕に丁場を新設すること・当年米穀高値のため貧窮者を掘方として日雇いすることを,村方より遠賀・鞍手御免方役所へ出願. 303
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30 天保五年 1834 〔9.-〕 楠橋村井手原の焚石丁場は,山麓につき御山の支障を考慮し掘り方中止のところ,焚料にさしつかえるため,村方より山方役所へ再掘方出願. 303
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31 天保五年 1834 〔11.-〕 楠橋村牛渕焚石丁場,古畠につき採掘不許可.村方より焚石山損銭のうち丁銭90貫文を焚石山元惣助・嘉平へ助合い. 303
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32 天保六年.2.12 1835/2/12 〔1.15〕 遠賀・鞍手両郡の焚石旅出を天保6年4月まで3ヵ月間延期方を大庄屋より郡代へ出願. 50
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33 天保六年.3.12 1835/3/12 〔2.14〕 福岡藩御救方高木平一,遠賀郡楠橋村牛渕丁場見分.昨年丁場取起し出願の際は郡代不許可であったが,御救方より郡代役所へ掛合うので,丁場取起し掘り方出願を命ずる.同月楠橋村庄屋・組頭より遠賀・鞍手郡代役所へ焚石丁場掘り方出願. 303
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34 天保六年 1835 〔2.-〕 遠賀・鞍手・嘉麻・穂波4郡の焚石旅出仕組,天保6年より10年間御救方の請持となる. 50
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35 天保六年 1835 〔3.-〕 遠賀郡若松村武市・善助・万平・平次郎・才蔵の5人,焚石会所手代役を命ぜられる.年給六銭800目. 433
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36 天保六年 1835 〔4.-〕 福岡藩において,これまで郡方仕組であった焼石仕組・鷄卵仕組・生蝋仕組および柴藤増次請持の皮座仕組など御救方引受の仕組となる. 678
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37 天保六年.6.7 1835/6/7 〔5.12〕 門司塩浜製の塩1000俵を石炭積廻しの戻り船で積帰り,石炭は普請方引受けのところ値段が安く引合わぬので値段調査の上書付提出方廻文. 569
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38 天保六年.10.26 1835/10/26 〔9.5〕 小倉藩主小笠原忠固が江戸城溜りの間詰になった御祝儀として,田川郡よりは大庄屋・子供役・徳人などより多額の金銭を献上.焚石山からも益銭をもって5年間に500両献金申し合せ. 569
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39 天保六年 1835 〔9.-〕 若松港内の船数,商船73艘・川艜8艘・御用船12艘. 572
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40 この年 1835 ▷黒崎・木屋瀬両宿継立人馬賃銭ならびに長崎奉行への包銭にあてるため,天保3年より同5年までの焚石旅出仕組年限延長を許可される.同5年以降は,〔11.15〕限りで益銭を役所へ収め,年々の利益の中から賃銭および包銭を補う. 82
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41 天保七年.1.20 1836/1/20 〔12.3〕 田川郡添田手永大庄屋中村武済,焚石1駄購入. 362
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42 天保七年 1836 〔8.-〕 鞍手郡下境村猿田の百姓利左衛門証文山の焚石丁場1ヵ所を,山元の文助・儀助の両名が旅出用・地焚料として掘り方を願い出て許可される. 82
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43 天保七年 1836 〔9.-〕 遠賀郡浦請持の五左衛門より勘定奉行へ宗像郡津屋崎・勝浦の地船が芦屋より焚石を余分に買取るため,三田尻船などの旅船は1艘も入津しない,したがって両塩浜の買取り値段100斤あたり銭8文の値下げをし,地・旅の区別なく順番に焚石を積み込むこと,また,なるべく両塩浜へは上石を廻すことを申し出ていたが〔9.28〕この旨勘定奉行より両塩浜に達示.両塩浜では,順番に焚石の配給をうけることになれば上石を得られぬおそれがあるが,その場合上石を選び取ることが許可されれば順番制に異存はない旨申し出る. 50
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44 天保七年 1836 〔11.-〕 小倉藩,田川郡神崎村での石炭採掘につき,金田村の賛否を打診.その結果,神崎村薬師谷には従前より多数の石間歩があり金田村内まで掘り通しになっているばかりでなく,文政初年頃の石間歩のため,神崎・金田両村境の峯尾に長さ40間~50間の地割れを生じ,金田村人見浦の溜池の水が神崎村内にある石間歩に流れ込み本田・畠成田約4町歩が干害を蒙ったので,神崎村薬師谷附近での採掘には反対の旨,金田村庄屋資宗卯右衛門・大庄屋金田四郎兵衛連名にて,口上書を提出. 527
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45 天保七年 1836/12 〔冬〕 遠賀郡楠橋村高江に焚石丁場開坑. 303
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46 この年 1836 *天保7年焚石益銭油備え鞍手郡4触(上境・平・宮田・直方),銭総高六銭64貫550目41,郡内総人高3万1570人で割ると1人当り2匁0447. 605
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47 天保八年 1837 〔12.-〕 山元忠七,直方町御館山根の野地の焚石丁場1ヵ所を地焚料として時々採掘することを許可される. 82
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48 天保八年.4.3 1837/4/3 〔2.28〕 福岡藩焚石御仕組,郡方請持となる. 433
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49 天保八年 1837 〔2.-〕 直方町のうち御館山根双林院前の野地の焚石丁場1ヵ所を,山元弥助・甚六の両名,地焚料として時々採掘することを願い出て許可される. 82
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50 天保八年.5.1 1837/5/1 〔3.27〕 遠賀郡若松村彦助・勝次郎,焚石旅出郡仕組御郡方請持を申付けられる.苦労銀年六銭800目.同じころ若松村武市・善助・万平・平次郎・才蔵ら5名焚石会所手代役を申付けられる.苦労銭六銭800目.また焚石問屋役には焚石100斤につき3文の手数料. 433
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