「文化創造都市宣言」記念式典(平成17年11月23日)「文化創造都市宣言」記念式典(平成17年11月23日)
 前章では長く険しい財政再建の道のりをたどるとともに、平成12(2000)年の都区制度改革を契機とする新たな自治体経営の確立に向けた取り組み経緯をたどった。
 その中でも触れたが、コストカット中心の行財政改革には限界が見られ、またひたすら行財政改革を推し進めていくことに終始しているだけでは都市としての活力が削がれるばかりで、地方分権時代の都市間競争に勝ち抜く道筋を見い出すことはできなかった。そのため、21世紀の豊島区のめざすべき将来像を新たな基本構想に描き、「住みたいまち、訪れたいまち」として選ばれる「価値あるまち」を実現していくために、平成18(2006)年3月に策定した基本計画では「文化」「健康」「都市再生」「環境」の4つを重点政策に位置づけ、戦略的な施策の展開を図っていった。特に文化政策は6期24年に及ぶ高野区政を貫く最重要政策であり、文化の力でまちに賑わいを生み出し、都市としての価値を高めていくことは高野区長の悲願とも言えるものであった。
 一方、「住みたいまち、訪れたいまち」として選ばれるためには、文化で賑わいを生み出すだけでは足らず、誰もが安全・安心に暮らし、過ごせるまちづくりが不可欠である。もとより「安全・安心」は「福祉・教育」と並び、すべての自治体の基本政策に位置づけられるものではあるが、繁華街池袋を抱え、また人口密度日本一の高密都市であるがゆえに、犯罪や事故、災害等のリスクが高い豊島区では、特に「安全・安心」なまちづくりが強く求められた。区民意識調査でも「特に力を入れて欲しいと思う施策」として、治安対策や防災対策は常に上位に挙げられており、区民による防犯・防災活動も長年にわたり取り組まれてきた。だが特に池袋を中心に、長年「くらい、きたない、こわい」というイメージがつきまとい、この負のイメージを払拭することも高野区長の悲願と言えた。
 こうして区長就任以来の「文化創造都市づくり」に加え、「安全・安心創造都市づくり」が区の最重要政策に位置づけられていったのである。高野区政にとっての「文化」と「安全・安心」は豊島区が「価値あるまち」として人々から選ばれるために不可欠な政策であり、いずれも行政が旗を振り、区民とともに取り組んだ政策である。敢えて誤解を恐れずに言うならば、自分が生まれ育った池袋が新宿・渋谷に都市開発の面で大きく水を開けられている現状を打破するために、他とは異なるやり方で取り組んだ政策と言える。さらに言えば、厳しい財政状況ゆえに「文化」というやり方を取らざるを得なかったのであり、それが豊島区独自の区民との協働による政策展開につながっていったと言えるだろう。
 そこで本章では、「文化創造都市づくり」と「安全・安心創造都市づくり」のふたつの都市づくり政策に焦点をあて、平成10年代から20年代後半に至る間の区政の動きをたどっていく。まず第1節では「文化を基軸とするまちづくり」の取り組み経緯をたどることとし、その端緒として、本項ではなぜ「文化」に着目したのか、そのきっかけは何だったのか、高野区政における文化行政の出発点を探っていく。

文化で飯は食えない

 平成11(1999)年4月の区長選挙で初当選を果たした高野区長は、選挙時の公約のひとつに「伝統と教育の街」を掲げ、「文化の薫り高い事業と青少年の育成の推進」を謳った。しかしその時点では、まだ福祉・環境・地域経済などの基本政策を前面に打ち出し、「文化の薫り高い事業」は8つの公約の4番目と、やや控えめな頭出しの印象に過ぎなかった。だが池袋で生まれ育った初の民間区長の胸の内には、同じ副都心の新宿・渋谷に大きく水を開けられた感のある池袋の地盤沈下に危機感を抱き、池袋を文化の薫り高いまちに再生したいとの強い思いがあった。
 それまでにも区は教育委員会や企画部門において文化財の保護や保存修復、古典芸能や民俗芸能等の伝承、区民芸術祭や池袋演劇祭等の開催、アマチュア楽団の支援などのほか、路上美術館など街づくりにも文化的要素を取り入れ、一定の施策に取り組んできた。だが都が西池袋に東京芸術劇場を開設した以外、それらの施策はいずれも街の方向やあり方を変えるほどのインパクトを持つものではなかった。
 こうしたことに歯がゆさを覚え、文化によるまちの再生への思いが後に独自の文化政策を推進していく原動力になっていくのであるが、しかし就任当時の区財政の置かれた危機的状況は「文化」への投資を許さなかった。
 新区長として初めて臨んだ平成12(2000)年度予算編成では、新年度からスタートする介護保険制度をはじめ、都区制度改革により移管される清掃事業への対応、またいよいよ本格化する学校統廃合に伴う新設校舎の建設事業など、苦しい財政状況でもどうしても重点的に予算を配分せざるを得ない事業ばかりが並ぶなか、新規事業のひとつに、100万円に満たない額ではあったが、「旧江戸川乱歩邸基礎調査」が盛り込まれた(※1)。
 日本探偵小説の草分けである江戸川乱歩は昭和9(1934)年から40(1965)年に死去するまでの31年間、立教大学に隣接する西池袋の地に住み続け、「怪人二十面相」シリーズなど数々の作品を世に送り出した。そのかたわら、私費を投じて後進作家に道を開く「江戸川乱歩賞」の創設や日本推理作家協会の創立に奔走するなど、日本推理小説界の礎を築いた。また戦時下には地元町会役員を務めるなど、地域人としても活躍した。戦後焼け野原となった池袋だが、乱歩が終の棲家とした邸宅は一部を除き奇跡的に戦禍を免れ、特に乱歩自身が「幻影城」と称し、執筆の場にも使用していた土蔵は夥しい蔵書類とともにそのまま残った。そこには稀代の「蒐集家」で知られる乱歩が集めた近世和本から海外の推理小説、犯罪学や心理学の専門書などが几帳面に整然と分類保管されていたほか、町会役員として活躍した当時の隣組会報など地域の歴史を伝える貴重な史料も含まれていた。
 この乱歩邸及び蔵書等資料を区に寄贈し、保存・活用できないかという話は以前からあったが、具体化には至っていなかった。だが同じ西池袋で生まれ育ち、区議会議員になる前は家業を継いで古書店を営んでいた高野区長にとって、この乱歩邸を池袋の地に残し、記念館として公開・活用したいという思いは人一倍強かった。このため平成12(2000)年2月、江戸川乱歩記念館構想を打ち立て、区長として初めて編成した新年度予算に乱歩邸公開・活用の可能性について検討するための基礎調査費を計上したのである。
 しかしこうした区長の思いとは裏腹に、防災上の観点から現状のままでは土蔵の一般公開は困難である上、何より新たな記念館整備には多額な費用がかかることから、当時の区の財政状況では到底、実現できる見込みなどなかった。翌13(2001)年2月開会の区議会第1回定例会の招集あいさつの中で、区長は「私が実現に向けて強い思い入れをしておりました江戸川乱歩記念館整備構想について、この間、さまざまな角度からその可能性について検討をしてまいりましたが、現在地に記念館を整備するためには、用地取得費や建設費などで多額な資金が必要となることなどのため、現在の厳しい財政状況にかんがみ、誠に残念でありますが記念館の整備については見送ることといたしました」と述べ、構想の断念を表明した。
 後年、高野区長は当時を振り返って「記念館を建てたら区は潰れる」と職員から脅されたと笑い話のように語っているが、初の予算編成の目玉事業であった記念館構想の断念はさぞかし無念であったに違いない。江戸川乱歩への思いは強く、しかも乱歩邸の保存はいわば区民に対する公約でもあったため、区長としても諦めきれず、出身校である立教大学に働きかけ、13(2001)年11月、乱歩邸及び資料は立教大学に譲渡され、保存されるという方向で話がまとめられた(※2)。
 翌14(2002)年、旧乱歩邸及び資料約2万点が正式に立教大学に寄贈され、同大学により資料の整理が進められた。その一方、区は乱歩が創立に尽力した日本推理作家協会の協力を得て、15(2003)年1月29日から2月9日までの12日間にわたり、区制施行70周年記念事業として「江戸川乱歩展-蔵の中の幻影城-」を開催し、資料公開への道を拓いた(※3)。同展では、戦時中に文筆活動ができなくなった乱歩がその徒然に作成した自伝的備忘録とも言える全9巻からなるスクラップブック「貼雑年譜(はりまぜねんぷ)」や、前述した町会関係資料など乱歩と池袋の関わりを紹介する未公開資料が多数展示された。また同展に合わせて刊行された限定版カタログ「乱歩の世界」には、日本推理作家協会理事長の逢坂剛氏をはじめ、宮部みゆき氏、皆川博子氏ら推理小説界の人気作家や乱歩ゆかりの人々による寄稿文が数多く掲載され、乱歩の魅力を改めて再発見する企画となった。
 そして翌3月26日、区は立教大学の所有となった「旧江戸川乱歩邸土蔵」を豊島区有形文化財に指定した(※4)。この指定は前年7月、乱歩邸土蔵の歴史的価値について立教大学から相談を受けた区教育委員会が同大学と共同で土蔵調査を実施し、その調査結果に基づき15(2003)年1月に区文化財保護審議会(会長:山口廣日本大学名誉教授)に諮問、3月に出された同審議会答申に基づき指定を決定したものである。この文化財指定により建築基準法に基づく現状保存修理が可能になり、また申請があった場合、区は修理経費の一部(総経費の2分1以内、上限1,500万円)を補助することになる。この指定及び区からの補助を受け、立教大学は土蔵の復原工事に着手し、翌16(2004)年春に工事は完了、同年8月、立教学院創設130周年記念事業として「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」を開催したのに合わせて土蔵を初公開した(※5)。さらに同大学は18(2006)年、乱歩が遺した膨大な資料を貴重な文化遺産として活用し、幅広い大衆文化研究に結実させていくため、旧乱歩邸を拠点とする「江戸川乱歩記念大衆文化研究センター」を設立した。以来、母屋部分は週2回の一般見学、土蔵については大学の記念事業や地域イベント等の機会を捉えて特別公開が行われている。
 こうして当初描いていたのとは異なる形ではあったものの、乱歩記念館構想は一応の実現を見るに至ったが、この一例からも当時の逼迫した区財政のもとでは「文化」に割く予算の余裕などなかった状況が窺える。第2章第1節で述べたように、高野区長就任以来の2期8年は財政再建に明け暮れる日々であった。「聖域なき行財政改革」を断行するにあたり、福祉や教育などの基本政策分野さえも切り詰めていかなければならない状況で、文化はどうしても二の次にせざるを得なかったのである。だが、行財政改革だけではまちも人も活力は低下していくばかりで将来展望は開けない。こうした閉塞状況から抜け出すためにも、「文化でまちを元気にしていく」というのが区長の強い考えであった。
 元々、生家が古書店という環境に育った高野区長は、若い頃から池袋に対する世間の負のイメージに違和感を覚え、それを払拭するには「文化しかない」という強い思いを持っていた。それが確信に変わったきっかけについて、平成25(2013)年2月に発行された区の文化政策の歩みをたどる「としまの文化デザイン」の巻頭インタビューの中で区長自らが語っている(※6)。それは昭和58(1983)年に区議会議員に初当選して間もなく、当時の台東区長内山榮一氏の下で「鞄持ち」として修行した経験であったという。内山氏は区議・都議を経て昭和50(1975)年から平成3(1991)年までの4期16年にわたり台東区長を務め、旧東京音楽学校奏楽堂の上野公園敷地内への移築や浅草サンバカーニバルの開催など、独創的な文化観光施策を展開し、「アイデア区長」と呼ばれて親しまれた人である。その内山区長が口癖のように「文化のない所にまちの発展はない」と語っていたことに触発され、自分もいつか豊島区を文化が光り輝くまちにしたいと、まだなりたての区議でありながら区長への道を思い描いたという。
 だがいざ区長になってみれば、内山区長が活躍していたバブルの時代とは大きく異なり、目の前にあったのは872億円にものぼる借金を抱えた「惨たんたる財政状況」であった。何よりも財政再建が最優先課題ではあったが、その一方で「こうした状況の中、経営努力をするのは当然のことですが、将来への目標をもつことも大事でした。その時に文化が重要だと思ったわけです。景気が悪くなるとまず文化予算を切ると考えがちですが、私は逆だと思っています」と同インタビューで語っているように、区財政が厳しい時だからこそ、その厳しさの先に希望を見据え、「文化を基軸とするまちづくり」へと舵を切ったのである。
 しかし当時の区民の反応は必ずしも芳しいものではなかった。区政連絡会の席でも「急に文化と言われても…」といった戸惑いや、「文化で飯は食えない」という率直な意見が発せられ、文化に縁の薄かった人々の本音が区長の耳にも届いたのである。
 そうした声を受けながらも、どうすれば文化によるまちづくりを進めていくことができるかを模索するなかで出会ったのが「ふるさと豊島を想う会」(以下「想う会」)であった。同会設立の発端は平成13(2001)年春、区長と当時区議であった小林俊史氏が南池袋(旧雑司ヶ谷)の粕谷一希氏宅を訪問したことだった。中央公論の名編集長だった粕谷氏は区長のまちづくりにかける熱い思いに耳を傾け、まずは地域の文化を知るために「サロンのような座談会」を定期的にやってはどうかと提案した。この提案を受け、粕谷氏主宰による私的な集まりとしてスタートしたのが「想う会」である。
 平成13(2001)年5月26日、池袋の居酒屋で開かれた第1回の集まりには、粕谷氏と区長のほか、粕谷氏とは大学時代の同級生という間柄の東京芸術劇場館長の小田島雄志氏、立教大学総長の大橋英五氏、雑司が谷在住の洋画家で「東京を描く市民の会」常任理事の小池俊夫氏(※7)、國學院大学教授で豊島岡女子学園理事を務めていた二木謙一氏の各氏(肩書きはいずれも当時)に、事務局として小林俊史氏と南池袋在住の溝口禎三氏を加えた8名が顔を揃えた。
 同会事務局長を務めた溝口氏の著書「文化によるまちづくりで財政赤字が消えた」(めるくまーる 2011年6月30日発行)から「想う会」の趣意書(抜粋)を以下に引用する。
-ながい不況がつづいて、犯罪も凶悪化し、学校崩壊、家庭崩壊がマスメディアの話題となるとき、ともすれば気分も滅入りがちです。しかし、われわれの周囲には、よく整備された道路、新しい装いの公園があり、劇場や美術館、図書館や資料館、博物館や音楽ホールがあり、デパートやホテルにひとが溢れています。多様な学校のキャンパスは若い活気に満ちています。国や自治体が財政難でも、社会は結構豊かなのです。
 こうした矛盾した気分の中で、社会が活気を取り戻し、ひとびとが元気になるのにはどうしたらよいのでしょう。現在ある装置や環境を創意工夫で十二分に活用し、これまで市井に隠れ、孤立している知識人たちが、分野を越えて連帯し、相互の世界を理解し、協力して新しい構想力を生むことでしょう。
 詩人や文士、学者やジャーナリスト、画家や音楽家、演劇人や芸能人、これからは多彩な分野の人々の社交の場です。政治家や官僚、実業家もそうした社交の輪に参加することで新しい視野が開けることでしょう。
 その発端として、われわれはささやかな同人たちの居酒屋での放談会からはじめたいと思います。
 この趣意書に掲げられているように、「想う会」は「多彩な分野の人々の社交の場」であり、そのめざすところは市井の知識人たちの分野を越えた連帯、相互理解、協力により「文化」によるまちづくりの新たな構想を見出していくことであった。粕谷氏が長年にわたり培ってきた編集者としての視点、すなわち社会の様々な課題について最適な筆者を見出し結びつけるという手法をまちづくりにも当てはめ、「市井に隠れ、孤立している知識人」を掘り起こし、「人」を中心とする交流の中から方向性を探っていこうとしたのである。
 以後、ほぼ2か月に1回のペースで参加者自らが話し手となり、また地域の様々な文化活動に関わるゲストを招いて話を聴き、その後自由に意見を交わし合う「居酒屋談義」は回を重ね、平成22(2010)年9月までの10年間に51回を数えた。この間に招かれたゲストは自由学園明日館館長で重要文化財修復工事に携わった吉岡努氏、駒込出身の建築評論家川添登氏、平成9(1997)年に日本一の売場面積を誇る池袋本店を開業したジュンク堂書店社長工藤恭孝氏、池袋モンパルナスの会会長玉井五一氏と池袋モンパルナス研究者である学芸員尾崎眞人氏、千早在住の落語家三遊亭圓窓師匠、郷土史家伊藤榮洪氏、元文芸坐社主三浦大四郎氏、熊谷守一美術館館長・画家熊谷榧氏など多岐にわたり、区内各大学の学長をはじめ会に賛同する人の輪も広がっていった(肩書きはいずれも当時)。そしてこうした交流の中から「文化」によるまちづくりの様々なヒントが得られていったのである。
 平成13(2001)年第2回区議会定例会の招集あいさつの中で、区長は「21世紀に対応する区の文化行政」の方向性とこの「想う会」について以下のように述べている(※8)。
-豊島区には、昭和初期の時代から今日まで、アトリエ村が輩出した幾多の美術家、舞台芸術学院や、多くの小劇場から育った若き演劇人などの活躍によって、文化の風が薫り高く吹いてきました。今日、池袋は映画の街でもあり、書店の売り場面積では日本一を誇る本の街でもあります。また、池袋演劇祭が開催され、多くの小劇場もある演劇の街であります。一方、区民の方々の中には、能や狂言、舞踊、音楽の世界で多くの方々がグローバルな活躍をされております。
 このように、豊島区には歴史的な文化活動のみならず、最新の文化が豊かに息づいています。これらの豊かな文化資源をお互いに生かし、文化を通じて世代や国境を越えた交流ができる街づくりを目指したいと私は常々思っておりました。
 このようなことから、このほど区内四つの大学の学長、東京芸術劇場館長など、区内の十人程度の文化人と定期的に懇談する私的な場を設けました。この懇談を通じまして、文化性豊かな街をともにつくり上げていこうと気持ちを一つにしたところでありますが、この間、私たちは余りにも厳しい財政状況を目の当たりにいたしまして、心のゆとりを失いがちだったのではないかと思ったのであります。
 私は、21世紀の豊島区に我々の世代が残すべき遺産の一つは、文化の薫り高い街であると思います。
 これまでも、区ではさまざまな芸術、文化活動への支援を行ってまいりましたが、区制70周年をきっかけに、21世紀を担う子供たちの心を豊かにする芸術・文化にかかわる行政の分野にさらに積極的に対処してまいりたいと思います。
 「想う会」を主宰した粕谷一希氏は昭和5(1930)年に雑司が谷に生まれ、東京大学法学部卒業後中央公論社に入社、42(1967)年から『中央公論』の編集長として多くの作家・研究者を世に送り出した。53(1978)年に中央公論社を辞した後は、評論家として活動する傍ら61(1986)年に『東京人』を創刊、独自の切り口から大都市東京の歴史や文化、風景を発信し続けた。こうした長年にわたる編集者としての鋭い視点に加え、活字文化の継承・発展にかける並々ならぬ情熱が相俟って、粕谷氏は後述する文化政策懇話会や中央図書館の運営など、区の文化行政に深く関わっていくことになる。
 そしてもう一人のキーマンとなったのが「想う会」に初回から参加した小田島雄志氏であった。同氏は日本におけるシェイクスピア研究の第一人者として全作品を翻訳、数々の舞台公演を通じて日本に紹介するとともに、演劇評論家として芸能・演劇界に広く人脈を持ち、平成5(1993)年に東京芸術劇場の2代目館長に就任していた。なお19(2007)年に3代目館長福地茂雄氏に交替後も、引続き名誉館長を務めている。
 「想う会」がスタートした平成13(2001)年当時、江戸川乱歩記念館構想を断念せざるを得なかったように、区の財政は「文化」に予算を割くゆとりなどなかった。だがそれでも、東池袋四丁目地区交流施設の整備だけは例外的に進められていた。第1章第1節第4項で述べた東池袋四丁目地区市街地再開発事業に伴う公共施設整備である。バブル崩壊の荒波をまともにかぶり、保留床購入予定者の撤退により事業の頓挫さえ危惧された中で保留床の一部を区が肩代わりして購入することにしたものであり、前加藤区長に「進むも地獄、退くも地獄」と言わしめたこの事業は、高野区長に引き継がれたのちも区財政が厳しいなか、何とか進められた。しかし当初はそのほとんどを使って中央図書館を配置する計画だったが、新たに池袋副都心の賑わいを生み出す交流施設の整備が加えられ、さらにその交流施設を舞台芸術に特化した劇場施設にする計画変更がなさた。この変更には様々な批判が噴出したが、それらを浴びながらも区長の文化に対する強い思いで計画は進められ、19(2007)年に新中央図書館と舞台芸術交流センター(あうるすぽっと)が開館した。
 そしてこの2施設の開館やその後の運営について指導・助言を仰ぐため、17(2005)年7月1日に小田島氏が芸術顧問に就任、これに続き翌18(2006)年1月12日には粕谷氏が図書館行政政策顧問に就任したのである(※9)。芸術顧問として小田島氏に依頼した役割は①劇場運営、②劇場運営にあたる専門家及び事業主体の選定、③開館記念事業の企画立案、④その他区の文化政策の4項目、図書館行政政策顧問としての粕谷氏の役割は①図書館の蔵書のあり方、②図書館における文化政策発信の方策、③その他図書館行政の3項目で、それぞれ専門的見地からの助言・指導を仰ぐことであった。
 新たに2施設を開設するにあたり、この上もない二人の助言者を得られたことは区にとって僥倖とも言うべきものであったが、さらに2施設への助言だけにとどまらず、それぞれの分野の第一人者である文化人二人を言わば区長のブレインとして顧問に迎えたことは、区長自身にとって以後、文化行政をぶれることなく進めていく上で大きな支えとなったに違いない。
 区議時代の内山台東区長からの薫陶、そして「想う会」を通じた粕谷・小田島両氏との邂逅が区長の「文化」にかける想いを後押ししたことは明らかであるが、さらに区長が文化をすべての政策の基軸に置くことに舵を切るに至ったもうひとつの契機がある。それは平成12(2000)年に突如として持ちあがった場外車券売場問題だった。同年7月に池袋駅東口に近接するビル内に競輪・オートレースの場外車券場を設置する計画が明らかになり、設置に反対する区民とともに計画の白紙撤回を求める運動が7年間にわたって展開された。その反対運動の一環として、14(2002)年7月5日、設置認可を所管する当時の平沼赳夫経済産業大臣のもとに区長、区議会正副議長並びに各会派幹事長、町会連合会会長ら区民代表者が不許可とするよう要請を行った際、同大臣は法治国家であるから様式・書式が整っていれば申請は受理せざるを得ないが、地域住民の意向を調査して詳細に審査をしている最中であり、「皆さんにお出でいただいたことは重く受け止めさせていただく」と前向きなコメントを述べた。だがその一方、ただ反対と言うだけでは根拠として弱い、「区長はどういうまちを創ろうとしているのか」と同大臣から問われたのである。「こういうまちをめざしているから池袋に場外車券場は要らない」と主張する拠り所となる確たるまちづくりビジョンが糾されたのであり、その問いに対する答えが「文化を基軸とするまちづくり」だったのである(※10)。
 こうして「文化で飯は食えない」と言われながらも、「文化」こそが「新生としま」を実現していく切札であるという区長の信念はますます強まり、21世紀を展望する新たな文化行政はスタートした。そしてその第一弾となったのが「区制施行70周年記念事業」である。
旧江戸川乱歩邸土蔵
旧江戸川乱歩邸土蔵内部
高野区長と粕谷一希氏(平成18年1月図書館行政政策顧問に就任)

区制施行70周年記念事業の展開

 昭和7(1932)年の東京市域拡張に伴い、巣鴨・西巣鴨・高田・長崎の4町が合併して誕生した豊島区は、平成14(2002)年、区制施行70周年の節目を迎えた。
 これを記念し、「躍動・感動・創造 ともに創ろう 文化の風薫るまち としま」をメインテーマに、1年間を通して173に及ぶ様々な周年記念事業が展開された。その内訳はシンボリックな事業として新規に予算化された記念事業が19事業、既存事業に70周年の冠を付けて実施された区主催事業17事業、区民団体等主催事業67事業、町会関係等70周年記念事業70事業となっており、大半は区民や地域団体が主体となって実施したイベントであった。その中には従前から経費の一部を区が助成している事業に70周年の冠を付けて実施されたものもあるが、区の呼びかけに応えて地域団体や民間事業者等により新たに企画された事業も少なくなかった(※11)。
 図表3-①は区制施行50周年、60周年、70周年それぞれの周年記念事業とその経費(当初予算ベース)を比較した表であるが、10年前の区制施行60周年の際は記念事業22事業のうち5事業が施設建設事業で、事業費総額約15億円(当初予算)のうち12億円を施設建設事業経費が占め、上池袋図書館と三芳グランドの整備費だけで11億円を超えていた(※12)。またさらに10年前の区制施行50周年でも記念事業9事業のうち3事業が勤労福祉会館等の施設建設事業で、事業費総額約12億円のうち11億円を施設建設事業経費が占めていた。一方、70周年には施設建設事業は一つもなく、事業費総額も約8千万円と1億円にも満たず、前回、前々回の周年事業と比べ、桁違いに規模が小さくなっている。
 区財政が厳しい中で施設建設事業、いわゆる「ハコモノ」にカネをかける余裕などないといった事情はあったものの、それが故に70周年記念事業は従前の周年事業とは異なる形で実施されることになったと言える。「文化」をテーマに区が主催する事業を厳選して経費を圧縮する一方、区民や地域団体等に呼びかけ、年間を通じ区内全域で173もの事業を展開していったのである。
図表3-1 周年事業比較
 区民や地域団体等を巻き込んでいく事業展開の背景には、平成12(2000)年10月に策定した「新生としま改革プラン」の柱のひとつに「区民との協働」を掲げたように、70周年事業の実施にあたり「区民と共に」一緒になって実施していこうとの視点を重視したことがあった。14(2002)年区議会第1回定例会の招集あいさつの中で、区長は「この70周年という区政にとっての歴史的な節目を、行政・区民・企業・大学・民間団体などがまさに手と手を取り合って『新生としま』を生み出していく出発点にしたい」と述べており、また10月1日に開催された区制施行70周年記念式典においても、大きな節目を迎えた区政の今後を展望し、「新しい時代の新しいまちづくり」を訴えたのである(※13)。
 平成14(2002)年2月5日、「区民と共に」周年事業を実施していくための推進組織として「区制施行70周年記念事業実行委員会」が設置された。区長を委員長とする同実行委員会には町会連合会やPTA連合会、青少年育成委員会連合会等の地域団体をはじめ、商店街連合会、東京商工会議所豊島支部等の商工団体、ふくろ祭り協議会や大塚阿波踊り実行委員会等の地域イベント主催団体、東京芸術劇場や舞台芸術振興会等の文化関係団体、サンシャインシティ等の地元企業、地域メディアであるとしまテレビや豊島新聞社などの各団体代表が委員として名を連ねており、地域を挙げて周年事業に取り組む気運を盛り上げていくことを目的としていた。
 こうした官民一体の実行委員会方式は、以後、豊島区版の区民参画「オールとしま」方式として定着・拡大していくことになるが、その萌芽は前々年の平成12(2000)年、西暦2000年の節目を迎えるのを機に「100万人で祝う2000年~チャレンジ豊島~」と銘打って展開されたプロジェクトの中に既に見られた(※14)。同プロジェクトは長引く不況で低迷する商店街・地域経済の活性化を図るため、一年を通して区内全域で実施される商業イベント等を季節ごとに束ね、一体的・効果的にPRすることにより集客力の向上、賑わいの創出につなげていこうというものであったが、この際にも東京商工会議所豊島支部や商店街連合会、百貨店等を中心に区内21の団体・企業等による実行委員会が組織され、駒込・巣鴨・大塚などそれぞれに個性ある商店街と池袋の大型店の両者が地域や団体の枠を越えて協力し合う初の取り組みを実現した。このプロジェクトは翌13(2001)年にも21世紀の幕開けを祝う「チャレンジ豊島21」として展開されたが、これらの取り組みから得た手応えが「区制施行70周年記念事業実行委員会」につながり、さらに町会等の地域団体や各分野の活動団体も含めた「オールとしま」の体制づくりへと広がっていったのである。
 そしてこの「オールとしま」は実行委員会にとどまらず、周年事業の実施方法にも反映されていった。前述したように173件の周年記念事業のうち137件は地域の活動団体や企業も含めた民間団体等が主催したものであった。大規模な商業イベントから各町会単位の盆踊りや餅つき大会まで、規模の大小に関わらずあらゆる事業に「70周年」の冠を付け、「区民みんなで祝う」という気運を盛りあげていったのである。個々の事業は小さなものであっても、それらを束ね、次々と展開していくことにより大きな「波」を起こし、また区が主導するのではなく、実行委員会を中心に区民や地域団体等が主体的に取り組むことにより個々の参加意識や一体感が共有されていった。
 前掲表中の⑥「70周年記念文化・芸術振興助成」は、文化振興基金から取り崩した5千万円を原資として区民や民間団体が周年記念事業として実施する文化・芸術に関する事業を助成するものであるが、これもまた実行委員会を通じて助成対象となる企画提案を地域から吸い上げていった。この助成事業の趣旨について、区長自身も「記念事業を一過性のイベントに終わらせることなく、21世紀の新生としまの基盤整備に結びつくプロジェクトとし、この取組みにより区民や民間団体などの新たなスクラムが生まれることを期待する」と述べ、18件の助成を実施している。
 また庁内においても周年事業への職員参加が進められた。メインテーマやマスコットキャラクターを職員から募集し、メインテーマについては126応募作品の中から区長が最終決定、マスコットキャラクターについては雑司が谷の郷土玩具「すすきみみずく」などで区にゆかりの深い「みみずく」をテーマに53応募作品の中から最終的に実行委員会の委員による投票により決定された。そしてこのメインテーマ「躍動・感動・創造 ともに創ろう 文化の風薫るまち としま」とマスコットキャラクター「ななまる」(70をもじったネーミング)をデザインしたのぼり旗を作成し、周年事業がスタートする4月1日から区施設各所に掲げるとともに、区内各地域で開催されるイベント等にも貸し出していった(※15)。
 こうして「オールとしま」で挑んだ70周年記念事業への参加者数は、173事業で延べ274万人を超えるものになった。これは区外からの参加者も含めての数字ではあるが、当時の区人口約25万人で単純に割り返すと区民一人あたり10回は参加したことになり、さらに主催者側として様々な形で参加した多くの区民や区職員を加えれば、まさに豊島区全域を挙げて取り組んだ結果と言えよう。
 70周年記念事業で区がめざしたものは、劇場や文化ホール等の閉じられた空間の中で区民がただ単に観客として鑑賞するだけのイベントではなく、それぞれの地域の中で日々繰り広げられる、まさに「区民が主役」の文化活動そのものであり、そこに企業や大学等の民間団体も巻き込んだ参加・協働型の文化事業であったと言える。そしてそれはハコモノや大規模なイベントに多額の経費をかけるのではなく、地域の様々な文化活動を支援し、地域から文化を発信していくという、「文化を基軸としたまちづくり」の幕開けであった。またそれは「ふるさと豊島を想う会」が提起した「現在ある装置や環境を創意工夫で十二分に活用」していくという考え方に重なり、その後の豊島区の文化政策を方向づけていくものとなったのである。
 以下、参加・協働型の特徴的な周年記念事業を抜粋し、概略を記す。

◆みんなで歌い継ぐ区民の歌「としま未来へ」の制作(※16)
 豊島区には昭和36(1961)年に制定した区歌が既にあるが、高度成長期の時代を反映した重々しい歌詞や曲調は式典向けで区民にとって馴染みやすいものではなかった。このため21世紀の豊島区に相応しい区民に愛され歌い継がれる「区民の歌」を新たにつくろうと全国から歌詞を公募(6~7月)、作曲はシンガーソングライターのさだまさし氏に依頼した。北は北海道から南は九州まで258件の応募があり、実行委員会から選出された選考委員会において36作品に絞り込み、さだ氏による最終選考及び補作を経て歌詞が決定。そめいよしのやつつじ、鬼子母神やとげぬき地蔵、サンシャインなど豊島区ゆかりの風景が随所に織り込まれた歌詞にさだ氏がメロディをつけた区民の歌「としま未来へ」が平成14(2002)年12月に完成、翌15(2003)年1月13日には東京芸術劇場で開催された完成記念コンサートでさだ氏自身が歌唱、同年7月にはCD化し有償頒布した。
◆大学サミット(※17)
 立教大学、学習院大学、東京音楽大学、大正大学の区内四大学との初の合同事業として開催(10月14日:豊島公会堂)。第1部は各大学学長と区長によるパネルディスカッション。第2部は学生による街づくり提案のプレゼンテーションで、「豊島区のイメージアップ大作戦」と題し、サミット開催に向けて4大学学生と区若手職員が3つのグループに分かれ、それぞれ「映画」「芸術」「お笑い」をキーワードに検討を重ねてきた施策提案を発表。若者の区政・地域参加、大学間連携を広げる契機となった。
◆2022「豊島区防災サミット会議」(※18)
 区と防災協定を締結している山形県遊佐町、群馬県万場町、埼玉県秩父市、福島県猪苗代町、埼玉県三芳町、岩手県一関市、岐阜県関市の3市4町の首長が一堂に会し、全国初の防災サミット会議を開催(9月30日:豊島公会堂)。各自治体の地域特性を生かし合った災害時の相互応援のあり方について協議、共同宣言を発表。以後、28(2016)年7月開催の「防災サミット in 那須烏山」まで6回開催、参加自治体の輪が広がっている。
◆池袋西口公園野外舞台(常設ステージ)オープン(※19)
 池袋西口商店街連合会と立教大学卒業生等の働きかけにより、区内商工団体などが加盟する「元気な豊島をつくる会」が主体となり約1,000万円の費用を集め、東京芸術劇場に隣接する池袋西口公園に常設の野外ステージを建設し、区に寄贈した。その完成を祝い、区民参加型イベント「池袋ウエストゲートパーク・ミュージック・フェスティバル」を開催(5月25・26日)。同ステージの有効活用を図るため、区と池袋西口商店街連合会との間で同ステージの管理に関する協定を締結した(9月25日)。
◆中山道開道400年祭り(※20)
 「おばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨地蔵通りは旧中山道の街道筋にあたり、この年ちょうど開道400年を迎えたことから、例年実施している「巣鴨中山道菊まつり」を拡大して開催(9月29日~10月6日)。地元商店街等で組織する実行委員会により江戸町家の再現や華やかな時代行列で賑わいを創出、来場者は約20万人にのぼった。
◆韓国ソウル特別市東大門区と友好都市協定締結(※21)
 東大門区と豊島区との関わりは昭和57(1982)年6月、両区の親善協会が姉妹提携したことに始まり、以後、民間交流が重ねられていた。また平成12(2000)年には豊島区少年野球連盟創立40周年事業として選抜チームが訪韓し、親善試合を行った際、名誉団長として同行した区長に東大門区長から友好都市交流の申入れがあった。区制施行70周年、民間交流20周年を迎え、さらにこの年には日韓ワールドカップが共同開催されるなど両国間の親善交流の気運が高まっていることを受け、区として初の外国都市との友好都市協定を締結した(5月9日)。
◆「プレーパーク」の開設準備(※22)
 子どもたちが自分の責任で自由に遊ぶことができる冒険遊び場「プレーパーク」を池袋本町地区に開設するにあたり、地元住民と公募区民による「おとな会議」と地元小学生による「子ども会議」を立ち上げ、運営形態等を検討するワークショップや子どもたちの要望を反映させるための見学会、「1日体験プレーパーク」等を実施。子どもたちも含めた区民参加による検討を経て、翌15(2003)年8月22日、「池袋本町プレーパーク」が開設した。
 このほか次世代を担う子どもたちのための事業として、区立小学校25校の5年生42人が参加し、実際の議場で意見を述べ合う「子ども区議会」、豊島区少年団体連絡協議会と小学校PTA連合会主催による「豊島区・上海市(静安区)日中友好子ども交流」、東京商工会議所豊島支部青年部が中心となり、子どもたちが将来の夢を募集、将来なりたい職業として人気の高いスポーツ選手や歌手・ダンサーなどのプロを講師に招いて体験教室を開催する「夢サポート事業」など、さまざまな事業が展開された(※23)。
◆江戸川乱歩展-蔵の中の幻影城-(※24)
 70周年記念事業のフィナーレを飾ったのは前述した「江戸川乱歩展」である。日本推理作家協会理事長で直木賞作家の逢坂剛氏を会長に迎え、評論家川本三郎氏、「想う会」の粕谷一希氏、乱歩の孫にあたる平井憲太郎氏らを委員に、また乱歩生誕の地三重県名張市の参加も得て江戸川乱歩展実行委員会を結成。さらに区長自らが会長を務め、区内関係団体で構成する江戸川乱歩展組織委員会を発足させ、官民一体で展覧会の成功を推進した。15(2003)年1月29日~2月9日の間、西武ギャラリー(池袋西武イルムス館)を会場に、豊島区70年の歩みをたどる企画と合わせて乱歩の魅力を再発見する同展を開催、総入場者数は14,000人を超えた。またこの展覧会開催に先立つ14(2002)年12月には池袋西ロータリークラブが区内全小中学校 47 校に『怪人二十面相』『少年探偵団』等の少年向け代表作計 418 冊を寄贈、合わせてその読書感想文を募集し、展覧会終了後に第1回「江戸川乱歩記念感想文コンクール」表彰式を開催した(3月13日)。
区民の歌「としま未来へ」CD
大学サミット
池袋西口公園野外ステージ
「江戸川乱歩展」限定カタログ「乱歩の世界」発行

文化行政の一元化

 区民や地域団体との協働により大きな成果を挙げた70周年記念事業を一過性のイベント事業に終わらせることなく、より長期的な文化政策の展開へとつなげていくため、まず取り組んだのは文化政策を推進していくための組織づくりであった。
 平成15(2003)年2月14日に開会した区議会第1回定例会の招集あいさつの中で、区長は以下のように述べ、その新たな組織となる「文化デザイン課」の設置に言及している。
-区長就任以来、重要施策の一つとして文化政策の充実を掲げ、区を挙げて取り組んでまいりましたが、15年度には、区制70周年記念事業の諸成果を継承し、文化政策の基本指針となる文化芸術振興プランの策定と教育委員会の芸術分野を統合した文化デザイン課の新設及び文化拠点施設の整備などを合わせて行うこととしておりまして、文化を基軸とした街づくりを大きく展開したいと考えております。
 この区長の所信表明を受け、同年4月の組織改正で「文化デザイン課」は新設されることになるが、そこに至るまでの経緯を概略する。
 高野区長が新区長として就任した平成11(1999)年当時、企画部には「文化国際担当課」が置かれていたが、それ以外に「文化」という文字が入った課名はなかった。同課は急増する外国人人口に対応するため、昭和63(1988)年を「国際化対策元年」とし、国際化対策を区政の重要課題に位置づけたのに伴い、平成4(1992)年4月、「文化国際課」として新設され、その後の組織見直しにより6(1994)年に企画部内の担当課長職に切替えられたものである。さらに12(2000)年4月の組織改正では、国際化対策は一応の定着を見たことから「文化国際担当課」は廃止され、区民部の「地域振興課」と統合、「地域文化課」に改組された。
 この12(2000)年度の組織改正は、同年1月、助役を委員長とする組織等検討委員会によりまとめられた「平成12年度豊島区行政組織の再編成について(最終報告)」に基づいて実施されたもので、12(2000)年4月に予定される都区制度改革に伴う清掃事業の移管や新たに始まる介護保険制度、さらに12出張所の廃止等を見据え、従来の11部を8部に再編するなど抜本的な組織の見直しを図ったものである(※25)。
 そうしたなか、「地域文化課」への統合・改組は「区民活動の場の提供と合わせ、文化や国際交流等の活動支援を通じて、区民とのパートナーシップを強化し、地域の活性化を促進する」ためのものと位置づけられていた。だがその所掌事務は、①文化行政の推進、国際化対策、環境美化・浄化(生活文化係)、②区民保養施設、区民集会室、豊島区民センター等(区民施設係)、③指定統計・委託統計、区の統計(統計調査係)の3項目で、冒頭に「文化行政の推進」が掲げられているものの、その中身は「文化国際担当課」と「地域振興課」の旧2組織が所掌していた事務を寄せ集めただけのものであった。
 組織等検討委員会最終報告の主眼は「地方分権の推進に対応する政策形成機能の強化」、「低成長経済への移行に対応する簡素で効率的な組織の構築」、「少子高齢化、資源循環型社会の構築等、今日的社会問題の解決に向けた組織集約と地域協働の推進」の3点に集約され、そこには「文化」に関する言及は見当たらない。「地域文化課」への改組もこれら方針に基づき、企画部を政策経営部に改称して区政全般の政策立案・調整機能に特化させるに伴い、個別政策である文化・国際を区民部に移し、出張所の廃止により事務量が減少する地域振興課と統合して組織の効率化、集約を図ったものであった。危機的な区財政の再建が最優先課題であった当時、文化政策を展開するための専管組織の新設など望みようがなかったのである。
 その一方、同年10月には今後の区政運営を方向づける「新生としま改革プラン」が策定された。それはこれまでのように、ただ汲々と行財政改革に明け暮れている状態から踏み出し、新たな時代に対応した行政スタイルの確立を打ち出すものであった。そしてその新たな時代を開くためにも、「文化でまちを元気にしたい」という、かねてからの区長の思いは日に日に強くなり、14(2002)年度の組織改正では地域文化課内の係組織を再編し、文化芸術施策調整係を新設し、同係のもとで区制施行70周年記念事業を展開したのである(※26)。
 そしてこの70周年事業の成果を得て、翌15(2003)年度の組織改正では「地域文化課」を廃止し、同課が担っていた「区民活動の支援」と「文化施策の推進」を切り分け、それぞれ「区民活動推進課」と「文化デザイン課」の二課が新設された(※27)。その改正の理由には、「区民活動及び区民との協働を推進するため『地域文化課』と『区民活動推進担当課長』を統合し、区民活動推進課を設置する」とともに、「文化・芸術施策の推進及び一元化を図るため教育委員会生涯学習課『芸術振興担当係長』の機能を区民部に移管するとともに地域文化課『文化芸術施策調整係』を廃止し、新たに『文化デザイン課』を新設し『文化芸術係』を設置する」ことが挙げられており、「文化政策」に特化した専管組織としての課が初めて設置されるに至ったのでる。
 こうして文字通り、文化施策をデザイン=企画・立案する「文化デザイン課」が誕生した。ただこの時点では課と言っても一係のみで、所属職員もわずか5名にすぎなかった。だが「デザイン」というカタカナ文字の入った組織名は従来の役所組織にはなく、課名に込められた期待感はもとより、一部ではあったものの、区長の権限の及ばない教育委員会が所管していた文化関連事業を区長部局に移管したことは、文化行政一元化への第一歩を踏み出したものと言えた。
 さらに翌16(2004)年度の組織改正では「文化担当部長」が設置され、あわせて東池袋交流施設の開設に向け、文化デザイン課内に「東池袋交流施設計画担当係長」が新設された(※28)。この「文化担当部長」は、区議会第1回定例会に提出された16(2004)年度組織改正の当初案にはなかったものが、同定例会最終日の3月31日に急遽、追加されたものである。同年1月に受けた「文化政策懇話会提言」に掲げられた「としま文化特区構想」を実現するため、全庁的な調整を図っていくことが「文化担当部長」に課せられた役割であった。
 「文化政策懇話会」及びその提言については次項で詳しく述べるが、区の新たな文化政策のあり方を検討するため、福原義春企業メセナ協議会会長を座長に迎えて14(2002)年9月に発足、16(2004)年1月に提出された「豊島区の文化政策に関する提言~としま文化特区の実現に向けて~」はその後の区の文化政策の指針となるものであった。この提言では文化政策を従来の文化・芸術分野に限定せず、福祉・環境・教育・産業・まちづくりなどの幅広い分野を包括する総合的な都市政策として捉え、区内の様々な文化・芸術活動や文化資源、産業集積等を有機的に結び、新たな創造活動や産業活性化を連鎖的に起こしていく仕組みとして区内全域を「文化特区」に位置づける構想を提起していた。この構想の実現に向け、部局を越えた調整が求められたわけであるが、区民部長との兼務職ではあったものの、「文化政策」に係る部長ポストが置かれた意義は大きい。
 こうして文化政策を全庁横断的に展開していく上でも文化行政を一元化する必要性はより高まっていたが、この当時、「文化」に関係する事務は新設された「文化デザイン課」のほかに、生涯学習や図書館、文化財等に関する事務は教育委員会が所管していた。だが区長から独立した行政委員会に位置づけられる教育委員会の事務は法令等により教育委員会の所管に定められているものが多く、区長部局への移管には様々な課題が予想された。そのため、平成15(2003)年区議会第4回定例会の一般質問で生涯学習及びスポーツ部門の区長部局への移行が提案された際は、学校教育との関わりや教育委員会制度のあり方にも関わる重要な課題であるとし、「議会や区民、関係の皆様のご意見を幅広く伺い、検討を進めてまいりたい」と答弁し、区長は慎重な姿勢を示していた。それが翌16(2004)年6月11日に開会された第2回定例会招集あいさつでは「かねてからの懸案でありました生涯学習やスポーツに関する事業の区長部局への移行について、教育委員会と具体的な検討を進めてまいりたい」と述べ、区長部局への移行を前提として検討に着手することを明言したのである(※29)。その背景に「文化政策懇話会」の提言があったことは言うまでもない。
 この区長表明を受けて16(2004)年6月28日、組織等検討委員会は政策経営部長を部会長とする検討部会を設置し、「生涯学習課・スポーツ振興課・中央図書館の事務の区長部局への移行」についての検討を下命した。同部会はこの3課が所管する全事務事業について区長部局への移行の可否を検討し、8月に「中間のまとめ」を報告、それをもとに教育委員会と調整を図り、12月には最終報告「総合的文化行政に向けた組織の再編について」を提出した(※30)。
 この最終報告では生涯学習課及びスポーツ振興課の2課が所管している事務のうち、学校教育に密接に関連する事務(学校施設の開放・PTA活動の支援等)」と「現行法制上教育委員会が直接執行することが予定されている事務(文化財の保護)」を除き、「①区長部局と教育委員会のいずれが所管しても差し支えない事務(各種講座・スポーツ大会・郷土資料館の管理運営等)」と「②教育委員会の所管とするが、教育委員会が直接執行せずに区長部局に代行させても差し支えない事務(社会教育施設・体育施設の管理運営等)」とに仕分けし、①については所管を区長部局に移し、②については区長部局が補助執行するとしている。また図書館については、図書館法に規定される「公立図書館」としての位置づけを確保するため、全事業を教育委員会に残すとした。
 補助執行とは、地方自治法第180条の7「普通地方公共団体の委員会又は委員は、その権限に属する事務の一部を、当該普通公共団体の長と協議して、(中略)普通地方公共団体の長の補助機関である職員若しくはその管理に属する行政機関に属する職員をして補助執行させ、又は専門委員に委託して必要な事項を調査させることができる」との規定に基づくもので、事務権限を教育委員会に残したまま、その執行のみを区長部局が担うことである。最終報告では社会教育施設や体育施設の管理運営のほか、任期途中の社会教育委員や体育指導委員等についても補助執行とされていたが、これら教育委員会が委嘱していた各委員は任期満了時に順次区長部局に移管され、また各施設の管理運営についても「社会教育会館は地域に密着した生活文化振興の拠点として、また、体育施設は区民の健康保持及び体力増進の拠点として、従来からの教育・文化という分野にとらわれることなく、今後は幅広い視野に立った活用を図る必要がある。よって、これらの施設について改めて見直しを行い、総合的文化政策を推進する拠点としての施設のあり方及び管理・運営手法の検討を行う」こととしていた。
 この最終報告で示された再編案に基づき、平成17(2005)年4月1日、同年度の組織改正により生涯学習課とスポーツ振興課を教育委員会から区長部局に移行し、前述した区民部文化担当部長の下に2課を統合した「学習・スポーツ課」が設置された(※31)。ただ前年12月にまとめられた最終報告については、区議会から記述が冗長で非常に分かり難いとの指摘があり、そのため年明け2月の予算内示会には最終的に「区民生活全般にわたる総合的な文化政策を推進し、地域の生活文化に根ざした活動を伸展させるため、教育委員会が担ってきた生涯学習及びスポーツに関する事務を区長部局へ移行する」と簡潔に記された組織改正案が再提出された。またこれに伴う組織条例の改正理由についても、「『文化政策』を区民生活・福祉・環境・教育・産業・まちづくり等のすべての政策に関わる総合的な政策として位置づけ、区民部において文化、生涯学習及びスポーツに関する事業をまとめて実施することで、総合的文化行政の推進を図るため」と文化行政一元化の意義が簡潔に記されている。そしてこの「文化政策」をすべての政策に関わる総合的な政策として位置づけることこそが「文化政策懇話会提言」の核心部分であり、その後も一貫して区長がめざしていった「文化を基軸とするまちづくり」に他ならなかった。
 こうして文化行政の一元化が大きく進展したことに伴い、補助執行とされていた施設等の所管についても区長部局へ移行する動きが加速していった。郷土資料館及び雑司が谷旧宣教師館については、17(2005)年4月の組織改正時に社会教育施設条例の枠組みから外して区長部局に移管され、体育施設については17(2005)年4月からの指定管理者制度導入に向けて16(2004)年12月に体育施設条例を改正した後、17(2005)年10月に再び同条例を改正し、所管を区長部局に移行した(※32)。
 同じく補助執行とされていた社会教育施設については、老朽化した青年館を平成17(2005)年9月30日をもって廃止するのに伴い、社会教育施設条例の対象施設が社会教育会館のみとなったため、同年10月に同条例を「社会教育会館条例」に名称変更し、さらに翌18(2006)年3月に同条例を廃止して新たに「地域文化創造館条例」を制定し、区長部局の所管施設とした(※33)。これにより各地域に設置されていた5つの社会教育会館は、18(2006)年4月1日から「地域文化創造館」として生まれ変わることになった。従来の社会教育会館は区主催による各種講座等の開催のほかは、社会教育分野の各種登録団体の活動拠点として利用されていたが、団体間の交流は乏しく、その活動は「自己完結型」が多かった。こうした状況から、より幅広い地域コミュニティづくりや地域に根ざした文化活動などを支援し、活動の成果の地域への還元や活動間の交流・連携を図り、地域活性化の「創造力」を生み出す拠点施設へ転換していこうとしたもので、新たな施設名称にはそうした意図が込められていた。
 また平成18(2006)年度の組織改正では、区民部の文化担当部長と前々年に設置された商工部を統合し、新たに「文化商工部」が創設された(※34)。この新たな部の創設意図について、区長は同年第1回区議会定例会の招集あいさつの中で「文化を基軸としたまちづくりは、にぎわいの創出や活力と深く関わる取組みであり、文化政策と商工・観光政策を一体的に進めることで、より大きな効果を生むことができる」と述べている。また16(2004)年1月にまとめられた「文化政策懇話会提言」が提起した視点も、文化を生活や産業、都市空間などと一体のものと捉え、区政全般を牽引する総合的な政策として文化政策を位置づけるものであった。因みにこの部名称に対し、区内商工団体からは「なぜ『文化』が先なんだ、『商工文化部』だろう」と反発する声があったという。だが「文化でまちを元気にしたい」との思いで文化行政を推進する区長は、経済が文化をつくるのではなく、文化によって地域経済を活性化していくという考え方に立っていたのである。ちょうどその当時、17(2005)年6月に池袋西口地区の商店街を中心に「NPO法人ゼファー池袋まちづくり」が設立され、同年10月には地域の文化資源である「池袋モンパルナス」を活用した「回遊美術館構想」が発表された。また巣鴨・大塚地区においても同年4月、区・地域金融機関・地元6商店街の共同出資によるTMO(タウンマネジメント機構)特定会社「豊島にぎわい創出機構」が設立され、中心市街地の活性化に向けた取り組みが開始されていた。こうした地域の動きも相まって「文化」と「商工」との融合を推し進めていったのである。
 ただし18(2006)年度の組織改正では、文化商工部に下に商工部所管の「生活産業課」と「観光課」、文化担当部長所管の「文化デザイン課」、「学習・スポーツ課」を配置したほか、東池袋流施設の開設準備を含め文化関連施設全般を所管する「文化施設課」を新設して5課体制としたもので、実質的には従来の課組織がそのまま並立する構成に止まった。それが翌19(2007)年度の組織改正では、東池袋交流施設の竣工に伴い文化関連分野の業務を全面的に見直し、生活産業課を除く4課は「文化デザイン課」、「文化観光課」、「学習・スポーツ課」の3課に再編された(※35)。これは文化分野の企画調整機能に特化した「文化デザイン課」を核に、事業課としての「文化観光課」と「学習・スポーツ課」を配置するものであったが、これにより「文化観光課」は商業・観光イベントと文化イベントの双方を所管することになり、「文化」と「商工」の融合がより一層図られたのである。
 一方、他の自治体においても生涯学習・スポーツ分野を首長部局へ移行する動きが広がっていた。そうした動きに呼応し、平成19(2007)年6 月、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律」が公布され、その第24条の2に以下の規定が盛り込まれた。
(職務権限の特例)
第24条の2 前2条の規定にかかわらず、地方公共団体は、前条各号に掲げるもののほか、条例の定めるところにより、当該地方公共団体の長が、次の各号に掲げる教育に関する事務のいずれか又はすべてを管理し、及び執行することとすることができる。
  • (1)スポーツに関すること(学校における体育に関することを除く)
  • (2)文化に関すること(文化財の保護に関することを除く)
2 地方公共団体の議会は、前項の条例の制定又は改廃の議決をする前に、当該地方公共団体の教育委員会の意見を聴かなければならない。
 この規定は「委任」や「補助執行」によらず、「条例」という形で議会の議決を経ることにより、長の権限として教育に関する事務の一端を担うことを可能とするものであった。区はこの規定に基づき、平成20(2008)年区議会第1回定例会に「豊島区教育に関する事務の職務権限の特例に関する条例」を提案した(※36)。生涯学習・スポーツ分野の区長部局への移行は既に実態として完了していたが、改めて条例により名実ともに生涯学習、スポーツに関する事務の所掌を区長部局に位置づけようとしたのである。だがその条例案を審議した総務委員会において、上記条文第2項の規定に関して手続き上の疑義が呈された。本来であれば議会に条例案を提出する前に教育委員会への意見照会を終わらせているべきところ、その手続きが行われていなかったため、「手続きに慎重を期すため」との理由により、区はこの条例案を撤回するという異例の事態となった。そして意見照会の手続きを踏んだ上で、翌21(2009)年第1回定例会に改めて同条例案を提出、議会の議決を得て同年4月1日に同条例は施行された。
 さらに平成20(2008)年度の組織改正では教育委員会所管の図書館業務を区長部局に移行し、文化商工部内に「図書館担当部長」と「図書館課」が新設された(※37)。17(2005)年度の生涯学習分野移管時には図書館は対象外にされていたが、その当時は国(文部科学省)も図書館法に基づく「公立図書館」については市町部局の補助執行は適切でないとの判断を示し、鎌倉市が図書館を市長部局による補助執行に変更しようとしたところ、文部科学省が行政指導を行い、議案を取り下げるという事態が発生していた。このため区としても図書館の移管を見送っていたのである。
 だがその後、19(2007)年4月に千代田区で図書館を区長部局に移行する動きがあり、図書館をめぐる国の姿勢にも変化が生じていた。同年7月に新中央図書館を開館させ、併設の舞台芸術交流センター「あうるすぽっと」との連携を視野に入れていた豊島区においても、区長部局及び教育委員会事務局の部課長級職員を検討メンバーとして、図書館の区長部局への移行について改めて検討が重ねられ、20(2008)年1月に検討結果報告がまとめられた(※38)。
 この報告書では、中央図書館を区長部局ヘ移行することにより区民ニーズへの迅速かつ総合的な対応や区長部局との連携による新たな事業展開の可能性など、図書館機能の向上が期待でき、移行は区民サービスの向上に寄与するものと結論づけている。そして具体的な移行の方法については、現行法令等に基づき、施設の設置条例や財産の帰属等は教育委員会に留保し、補助執行により区長部局に移行する、またそれに伴い、区立図書館事業に係る年度当初の事業計画や予算、年度内の実施状況及び重要な事業内容の変更等については教育委員会に定期的に協議・報告していくとの考え方が示された。
 この報告を受け、1月22日、区は教育委員会に「中央図書館の区長部局への移行」について照会した。これに対し教育委員会は、「図書館行政の中立性が担保され、今後も『子ども読書活動推進計画』の実施や学校図書館との緊密な連携をはじめとする図書館事業の堅持及び発展が図られること」を条件に、以下の5項目について具体的方策を明示し、その実現に最優先で取り組むことを要望して区長部局への移行に同意する旨を回答した。
 (1)図書館の中立性を確保するために協議会方式の採用など新たな制度を導入すること。
 (2)地域図書館も含めた区立図書館の充実・発展のビジョンを明らかにすること。
 (3)区長部局への移行後も既存事業が円滑に継続され、教育委員会に対する報告・協議が適切に行われること。
 (4)区長部局ヘ移行することにより、他の文化施策との連携がどのように充実するのか、そのメリットを具体的に提示すること。
 (5)「子ども読書活動推進計画」の今後の取り組みと、小中学校図書館との連携について、より具体的な内容を明らかにすること。また、小中学校図書館の充実に努めること。
 これらの要望を受け、20(2008)年12月に学識経験者や教育委員、小中学校長、利用者代表(公募)等で構成される「図書館経営協議会」を設置したのをはじめ、22(2010)年3月には第2次となる「子ども読書活動推進計画」を策定するなど、区は教育委員会と協議しながら順次、要望に応えていった。
 こうして平成16(2004)年に検討が開始された文化行政の一元化は、図書館の区長部局への移行により一通りの完結を見るに至った。そしてこの「図書館課」を含めた文化商工部5課の所属職員数は94名になっていた。その人数には商工分野を担う「生活産業課」の職員19名も含まれているが、ここにきて文化の名のつく組織の職員数が100名近くになったのである。15(2003)年4月に新設された「文化デザイン課」がたった5名の職員でスタートしたことを思えば、わずか5年の間に隔世の感さえ覚える。行財政改革により職員定数の削減を強力に進めている一方で、こうした特定分野への人的資源の集中を批判する声もあったが、文化行政の成否が区政、ひいては都市としての豊島区の再生の鍵を握っているとの区長の信念は揺るがなかった。職員数の変化ひとつにも、そうした区長の覚悟が垣間見えるのである。

としま未来文化財団

 文化行政を推進するために、庁内組織の一元化とともに取り組んだのが外郭団体の見直し・再編だった。
 平成17(2005)年4月、区は豊島区コミュニティ振興公社(以下「コミュニティ振興公社」)と豊島区街づくり公社(以下「街づくり公社」)を統合し、新たに「としま未来文化財団」(以下「未来文化財団」)を設立した(※39)。
 未来文化財団の前身であるコミュニティ振興公社は昭和60(1985)年4月に設立され、豊島公会堂・区民センター・勤労福祉会館の3施設の管理運営業務からスタートした。その後、社会教育会館や体育施設等、受託施設を増やしていくとともに、62(1987)年の「コミュニティシアター」を皮切りに自主事業を開始し、区から移管された事業も含め「区民参加オペラ」、「民俗芸能inとしま」、「としま区民芸術祭」など、様々な文化事業を展開していた。一方の街づくり公社は第1章第1節第3項で述べた通り、区の街づくり事業を補完する組織として平成元(1989)年4月に設立され、主に防災街づくり事業を展開する各地域において街づくり協議会等への支援に携わっていた。
 区が公社等の外郭団体を設立する目的は、区が直接実施しがたい事業、もしくはより効率的・柔軟な対応が期待できる事業を代行・補完させるためであり、区がコミュニティ振興公社に求めたのも、文化施設の柔軟な管理運営や各種文化事業の効果的な実施を通じ、区の文化施策を補完する実行部隊としての役割であった。そして区は外郭団体の運営を支援するため資金援助や職員の派遣等を行っていたが、コミュニティ振興公社に対しても新財団に移行する前年の16(2004)年度決算ベースで、公会堂・区民センター・勤労福祉会館・社会教育会館・体育施設等各施設の管理委託料として約6億5千万円、としま区民芸術祭等の個別の事業補助のほか公社運営経費補助として約5億8千万円の補助金を支出しており、区から振興公社への支出金総額は12億円を超えていた。
 しかし区財政の逼迫に伴い、当然のことながら行財政改革の波は外郭団体にも及び、組織運営や財政支援のあり方に厳しい目が向けられるようになっていった。街づくり公社との統合も、時代の変化に応じて両公社の役割を見直すという側面はあったものの、何よりも行財政改革の一環として組織運営の効率化を図ることが目的であった。さらに新財団が設立される17(2005)年度には指定管理者制度の導入が予定され、コミュニティ振興公社の主業務である施設管理の委託方式が大きく変ることになり、またそれに伴って従来の財政支援のあり方、特に人件費補助を含め、一括して支出していた運営費補助の方法などの見直しが迫られることになったのである。
 平成15(2003)年の地方自治法改正により、「公の施設」の管理について直営もしくは委託対象を政令等で定める法人や公共的団体に限定していた従来の管理委託方式に代わり、株式会社等の民間事業者も含めて対象の範囲を拡大する指定管理者制度が創設され、既に管理委託を行っている施設は18(2006)年9月までに指定管理者制度に移行することとされた。これに伴い、豊島区においても17(2005)年度からの導入に向け、16(2004)年度には関係条例の制定・改正や事業者選定の作業が進められた(※40)。
 同制度では原則としてプロポーザル方式により事業者を公募し、外部有識者及び区職員等で構成する審査委員会で指定候補者を選定し、議会の議決を経て指定管理者を決定することになっていた。このため、17(2005)年度導入予定の体育施設や自転車等駐車場、目白庭園等ではこの公募方式が採られたが、公会堂や区民センター、地域文化創造館等の文化施設については、公募によらず従来から管理業務を受託していたコミュニティ振興公社が指定候補者とされた(※41)。
 これは「公の施設に係る指定管理者の指定手続等に関する条例」第2条第2項の「前項の規定にかかわらず、区長等は、区が出資している法人又は公益社団法人豊島区シルバー人材センター、社会福祉法人豊島区民社会福祉協議会その他の公共的団体に施設の管理を行わせることにより、地域住民の参画を積極的に活用した施設の管理が図られ、施設の設置目的を効果的かつ効率的に達成することができると認めるときその他規則で定める相当の理由があると認めるときは、同項の公募をしないことができる」との規定に基づく例外的な措置であった。
 平成17(2005)年2月17日、区は同日開会した区議会第1回定例会に同年4月から指定管理者制度の導入を予定している20施設について、指定管理者を指定するための議案8件を提出した。このうちコミュニティ振興公社を指定候補者とする議案は、区民活動推進課が所管する区民センター、豊島公会堂及び南大塚ホールの3施設3件と、教育委員会生涯学習課が所管する社会教育会館(5館)についての計4件で、それぞれ区民厚生委員会、文教委員会で審議され、いずれも賛成多数で可決された(※42)。
 また同定例会にはこれら指定管理者の指定に関する議案のほか、「財団法人豊島区コミュニティ振興公社に対する助成に関する条例」の改正案が提出された(※43)。この条例改正の理由には、「指定管理者制度導入に伴い、従来の人件費一括補助方式を廃し、今後新財団が自主的に実施する事業経費への補助並びに経営改革のため必要となる資金を補助するため、補助の方法を事業別に行うこととした」ことが挙げられていた。指定管理者に関する議案とは別案件ではあったが、前述したように公社に対する財政支援(補助金)のあり方の見直しが迫られるなか、指定管理者制度の導入を機に補助金の支出方法を見直し、従来のような一括補助から事業費ごとの委託料に切替えていこうとするもので、この措置は新財団が指定管理者として引き続き施設の運営を担っていくことを前提としたものであった。
 未来文化財団管理施設を非公募とした背景にはこうした事情もあったと思われ、それは非公募とした理由に挙げられた「文化政策の推進を重要政策に掲げる区の方針及び公益性(公共性)や財政状況などの事情を参酌した結果、財団法人豊島区コミュニティ振興公社については(前述の条例第2条第2項の規定に基づき)公募をしないことができるものと認められるため」という文中の「財政状況などの事情を参酌した」との文言からも読み取れる。この改正条例案を審議した総務委員会では、自立的な経営基盤の強化と言いながら、経営改革のための資金補助を残すのは疑問であるといった意見が出されたが、あくまでも経過的な措置として補助金を出すものであって、将来的には補助金はなくしていきたいとの区の説明を受け、この議案についても賛成多数で可決された。
 こうして17(2005)年度を迎え、コミュニティ振興公社を引き継いだ未来文化財団による指定管理業務は開始され、区から財団への補助金の流れも大きく変ることになった。運営経費補助として一括して支払われていた人件費補助が廃止されたことにより、平成17(2005)年度に財団へ支払われた補助金総額は前年度の約5億8千万円から約3億3千万円へと大幅に減額した。一方、財団が管理受託していた体育施設が他の民間事業者による指定管理に移行したこともあって、個々の事業ごとに人件費が算定される指定管理料等の委託料も約6億5千万円から約6億円へと僅かながら前年度より減額しており、その結果、区から財団への支出金総額は約12億2千万円から約9億3千万円へと3億円近く縮減された。図表3-③は財団に対する区支出金の推移を表したグラフであるが、このグラフからも分かるとおり、指定管理者制度が導入され、補助金支出方法が見直された17(2005)年度を境に区支出金に占める補助金の割合は大幅に低減していったのである。
図表3-2 としま未来文化財団に対する区支出金の推移
 このような財政面での改革が進められる一方、未来文化財団が果たす役割にも変化が見られるようになっていった。
 新財団設立以前の平成14(2002)年、コミュニティ振興公社は区と共に、区民の歌「としま未来へ」の制作をはじめ様々な区制施行70周年事業に携わったが、新財団の名称「としま未来文化財団」はこの区民の歌のタイトルに因んだものであった。また設立に伴って改められた定款には、新財団の目的を「さまざまな人々と共に生き、共に責任を担う協働と共創の文化都市を豊島区に実現するため、創造性のある文化・芸術活動の伸展を図りつつ、コミュニティの醸成とまちづくり活動の促進に関する事業を推進し、これらの事業を通じて豊かな区民生活と活力ある地域社会の形成に寄与すること」と掲げており、この「協働と共創の文化都市」は平成15(2003)年3月に制定された新基本構想の「協働・共創のまちづくり」を踏まえたものであった。区の新たな構想に呼応し、新財団にはより一層、区長が掲げる「文化を基軸とするまちづくり」の一翼を担っていくことが期待されたのである。
 そうした中でも平成19(2007)年9月に開館した舞台芸術交流センター「あうるすぽっと」の指定管理業務を担うことになったことは、財団にとって大きな転機になった。
 この「あうるすぽっと」の開設経緯については第3項で詳述するが、破綻寸前に追い込まれた東池袋4丁目地区市街地再開発事業を立て直すため、区が保留床の一部を購入し、東池袋交流施設として中央図書館とともに整備した客席数301の劇場施設である。加藤区政からの宿題として引き継ぎ、新たな文化施設をつくる余裕などなかった厳しい財政状況の中で、保留床購入経費も含め約42億円もの整備費を投じていた。また開館後のランニングコストについても、稼働率70%として毎年度約2億円がかかることが想定され、いかに収益をあげて区の財政負担を抑えていくかが課題とされた。
 未来文化財団は平成18(2006)年1月、「あうるすぽっと」の開設準備業務を受託したのに続き、翌19(2007)年3月、開館後の指定管理者に非公募で指定された。だが公会堂や区民センターの指定管理を受託していたものの、実態はコミュニティ振興公社が行っていた施設管理業務の延長線に過ぎず、そもそも未来文化財団には劇場経営のノウハウはなかった。集客力の高い演目を企画し、多くの劇団を呼び込んで劇場の稼働率をあげていくには、プロデューサーやマネージャーといった劇場経営の専門的な知識や経験を有する人材の確保が必須とされたのである(※44)。
 一方、同じ19(2007)年度に実施された外部評価で、未来文化財団はA~Dの4段階の総合評価でC「継続するが実施方法等見直しは必要」という評価が下されていた(※45)。この外部評価は、公募による区民4人と学識経験者5人で構成される外部評価委員会が第三者の視点から区の事業を客観的に検証する新たな行政評価制度として17(2005)年度に導入されたもので、財政援助団体である外郭団体も評価対象になっていた。厳しいC評価が下された理由のひとつに未来文化財団の経営組織の問題が挙げられ、「区の職員やOBを派遣し、かつ区の施設の運営を委託するだけの外郭団体であるとの観は依然として拭いがたい」として、「厳しい経営環境を切り拓く能力のある固有のマネージャーを雇用することが必要」と外部人材の積極的な登用が提起されていた。
 こうした課題や厳しい評価に応えていくため、未来文化財団は「あうるすぽっと」の開設に向けて芸術顧問である小田島雄志氏の助言・指導を活かしていくとともに、舞台芸術分野の専門家を新たに雇用し劇場経営・企画力の向上を図った。
 また、座席数301という劇場ホールしては決して大きくない規模を逆に活かし、演劇等の舞台芸術に特化した劇場として東京芸術劇場やサンシャイン劇場など区内の他の劇場との差別化を図っていった。杮落とし公演としてミュージカル 「ハロルド&モード」、「駅・ターミナル」、「海と日傘」、「朱雀家の滅亡」の4演目を立て続けに上演して話題を集め(※46)、翌20(2008)年9月には開館1周年・池袋演劇祭20周年記念公演としてジェームズ三木脚本・演出「池袋わが町」を上演し、「演劇の街・池袋」をアピールした(※47)。
 さらに、区民主体の文化活動団体等の発表の場としての「あうるすぽっと区民シリーズ」をはじめ、各種演劇ワークショップや「視覚障害者演劇鑑賞ボランティア講座」、区内公立学校にアーティストを派遣するアウトリーチ事業などの区民参加型の企画事業を展開し(※48)、文字通り舞台芸術を通じた交流拠点として区民からも認知されていった。
 これらの区民参加型の事業展開は他の指定管理施設の運営にも波及し、平成16(2004)年に既に開講していた「ジュニア・アーツ・アカデミー」に加え、「キッズ・シアター」「日本舞踊」「狂言教室」等の子ども向けのワークショップをスタートさせ、また18(2006)年に社会教育会館から衣替えした各地域文化創造館では地域ボランティアガイドの養成や各地域の文化資源を活かした地域ブランド事業を展開していった。
 こうして区の「文化を基軸とするまちづくり」に伴走してきた未来文化財団は、平成23(2011)年4月、公益法人改革に伴い公益財団法人に移行し(※49)、その公益目的事業の柱に「文化芸術の伸展に資する公演・展示会等の企画・実施」「文化芸術の啓発、体験、支援等の教育普及活動」「文化芸術の伸展のための情報発信」「区民の文化活動の促進に関する事業」「地域の活性化とまちづくり活動支援事業」「公立文化施設の管理運営」の6事業を掲げている。昭和60(1985)年に貸館運営を主業務とするコミュニティ振興公社としてスタートした未来文化財団は、約30年の歳月を経て区の文化行政を担うパートナーとしての地位を確かなものにしていった。そして22(2010)年に「雑司が谷案内処」、27(2015)年に「トキワ荘通りお休み処」の管理運営をそれぞれ受託、31(2019)年4月には庁舎跡地「Hareza池袋」に整備された新ホール「芸術文化劇場」と「としま区民センター」の指定管理業務を開始したのに続き(※50)、「池袋西口公園野外劇場」、「トキワ荘マンガミュージアム」の運営業務も受託し、現在では区の文化施設のほとんどの運営を担うに至っている。
「としま未来文化財団」設立(平成17年4月)
ジュニア・アーツ・アカデミー