様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
5 雑司が谷の街並み、ご主人が愛した風景
東京芸術大学油絵科を卒業した夫の俊夫さんは、生まれ育った雑司が谷の街並み、風景をこよなく愛した。定年退職後、自宅にアトリエを構え、本格的に絵画制作の活動を開始した俊夫さんは、雑司が谷を中心に古民家をはじめ消えゆく街の風景を描き続けた。特に「桜」は好んで描いた題材の一つだ。パステルを用いて、満開に咲く桜の幻想的な美しさをキャンバスの中に蘇らせている。法明寺、自由学園明日館、雑司ヶ谷霊園…「この霊園のサトザクラはもうなくなってしまったものなんです。木が伐られたときは、私が伐ったみたいに、毎日『なんで伐っちゃったの』って言うんですよ。『私が伐ったわけじゃないのよ』って」と、俊夫さんとのやり取りを懐かしそうに語る。すでになくなってしまった桜が、今も俊夫さんの絵の中で咲き続けている。
そうした失われゆく風景を絵筆やカメラで残していこうと、東京芸術大学のOBや建築家、写真家などの会員の「東京を描く市民の会(※17)」に俊夫さんも加わり、常任理事を務めていた。平成16(2004)年に俊夫さんが亡くなられた後は、小池さんがその遺志を引き継ぎ理事を務めている。「会のほうから、入って欲しいということで」というように、様々な会から請われ、そのまとめ役を務めている小池さんだが、「だいたい何をするでもなく、何となく…人畜無害なんですよ」と照れたように笑う。自らの色をあまり出さないことが、人々や活動をつないでいく秘訣なのかもしれない。
この「東京を描く市民の会」のもとは、昭和63年当時建て替え計画のあった東京駅丸の内駅舎の保存運動を行っていたグループで、雑司が谷旧宣教師館(※18)の保存運動にも関わっていた。「宣教師館の保存運動は、前島郁子さん(※19)とか東京駅を残そうと運動をしている人たちと東京芸術大学の前野まさる先生を中心に。女の人たちはみんなで『マンションを建てないでください』っていう活動にいったんですけど、前野先生が『それは違う、ここの建物が大事なんだから、建物を残そうっていう方向でやりなさい』ということで始まったみたいですね」と、小池さん自身は保存運動には関わっていなかったというが、「ずっと前に住んでた方が、増築だけで建物自体は変えなかったからよかったんです。せっかく残った宣教師館をずっと大事にしていきたいというのはありますね。今はすごくお客さまが多いので」と、住宅街で分かりにくい宣教師館の道案内をすることもしばしばだという。
失われゆく風景がある一方、昔ながらのたたずまいをとどめているのも雑司が谷の魅力のひとつだ。「うちの辺だとほとんど変わらない。狭いところにみんなで住んでるような…」と、変わらぬ雑司が谷の街並みを愛おしむように語る。副都心線の影響についても、「副都心線よりも、ここの場合は都電ですね。お客様がいらっしゃると、都電が着いたんだなってすぐ分かる」と、昔ながらの路面電車が走る風景の方が雑司が谷に住む人々には馴染んでいるようだ。「(変わらないことが)いいとか悪いとかじゃなくて、自然にこうなっているのかなっていう感じですね。道の広さからすると、高い建物を建てられないんですよね。だから多分そのまんまで……私ももう何年もないですから」と笑う小池さんも、雑司が谷の街そのままに自然体に生きているのかもしれない。
関連資料:H250604プレスリリース
関連資料:『雑司が谷旧宣教師館だより』第33・34合併号(2005年1月15日発行)、H131115プレスリリース