「環境浄化指導員」による池袋駅西口パトロール「環境浄化指導員」による池袋駅西口パトロール
 平成10~20年代の政策展開の大きな柱として、前節の「文化創造都市づくり」に続き、本節では「安全・安心創造都市づくり」の取り組み経緯をたどっていく。まず本項では繁華街池袋を抱え、事件・事故のリスクが高い豊島区において、防犯や環境浄化に向けてどのような治安対策が展開されていったかを概観する。

池袋通り魔事件とオウム真理教問題

 平成11(1999)年に高野区政がスタートして間もなく、区民を震撼させる二つの事件が相次いで起きた。
 ひとつは同年9月8日正午前、区内でも最も人通りの多い東池袋のサンシャイン60通りで発生した通り魔事件である。白昼の繁華街で通行人が次々と襲われ、死亡者2名、負傷者6名を出した無差別殺人事件はマスコミでも大きく報道され、予測できない理不尽な犯行に対する恐怖に世間の人々は震え上がった。そしてそれ以前から池袋にもたれていた「怖い・汚い・暗い」という負のイメージは、この事件によりさらに強まることになった。
 もうひとつの事件は通り魔事件の恐怖が覚めやらぬ9月29日の夜、オウム真理教団が記者会見を開き、教団中枢機能の一部を足立区の本部施設から池袋本町4丁目の東京本部道場に移転すると発表したことであった。会見では「オウム真理教」の名称使用の一時停止、対外的な宗教活動の休止等を内容とする「休眠宣言」を発表しつつも、あわせて教団中枢の「広報部」と「法務部」を足立区の本部施設から池袋本町4丁目の東京本部道場に移転することが明らかにされたのである(※1)。
 平成7(1995)年3月に地下サリン事件を引き起こしたオウム真理教団は、その首謀者である教祖麻原彰晃(本名・松本智津夫)はじめ実行犯である教団幹部が逮捕された後も、宗教法人法に基づく解散命令を受ける一方、破壊活動防止法の適用が見送られたため、任意の団体として一部信者らによる集団生活が続けられていた。地下鉄サリン事件をはじめ一連の凶悪事件に対する謝罪や反省の言葉を発することなく活動を続ける教団の姿勢に、教団の解散や関連施設の退去を求める運動が全国各地で展開され、豊島区議会においても平成7(1995)年第2回定例会において「オウム真理教事件の全容徹底究明と宗教法人解散を求める意見書」を全会一致で採択し、内閣総理大臣ほか関係機関に提出していた(※2)。また当時、破壊活動防止法に替わりオウム真理教団を規制するための新法(「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」1999年12月27日施行)制定の動きがあり、この「休眠宣言」は反対運動の矛先をかわし、新法制定の動きを牽制するためのものに過ぎず、世間の人々の教団に対する疑念はさらに増していた。
 移転先とされた池袋本町の東京本部道場は前年の平成10(1998)年7月に教団が自然食品を扱う会社を装って借りた6階建てマンションの1階フロア(全5室、約214㎡)で、当初は数人が出入りしていただけだったが、8月9日に信者約200人が集まり、物々しい雰囲気の中で道場開きが行なわれた。これに驚いた地元町会やマンション管理組合を中心に「池袋本町四丁目環境浄化推進協議会」(1999年6月「池袋本町オウム対策協議会」に改称、以下「オウム対策協議会」)が設立されたが、その後も信者と思しき者からマンション住所地への転入届が相次いで出され、その数は約20人に増えていった。同協議会はマンション居住者及び管理組合との連名で当該マンション1階部分の所有者である不動産会社に対し、早急に賃貸契約の違反を確認し、裁判をもって教団を退去させるよう求める内容証明付の文書を送ったが回答はなく、また同社は600万円以上も管理費を滞納している上、所有物件のマンションは差し押さえられ、競売に付せられることになっていた。そのような状況ではマンション明け渡しの手続きを同社に期待することはできす、逆に教団のダミー会社がこの物件を買い取る最悪の事態が懸念された。このためオウム対策協議会は10(1998)年9月、地域住民等11,663名の署名を付して、区にこのマンション1階部分を買収するとともに、教団を退去させるための裁判を起こすことを求める「マンション購入に関する請願」を区議会に提出した(※3)。
 この請願が区議会の全会一致で採択されたことを受け、区は庁内組織「池袋本町四丁目マンション問題対策プロジェクトチーム」(1999年7月「豊島区オウム真理教対策プロジェクトチーム」に改称)を設置し、区による買収の可否について検討を重ねた。だが当該物件のマンションには複数の債権者がおり、所有権や抵当権が複雑に絡んでいたことに加え、不動産価格の下落により競売にかけられても買い手が付かない状況にあった。さらに建築年次が古く設計図書もない状態で、仮に区が買い取っても活用が困難であることに加え、占有者である教団が必ずしも立ち退く保証がないことから、区がこの物件を取得するために財源を投入することは適切ではないとの結論に至った。こうして事態に進展が見られないなか、翌平成11(1999)年7月、最後の手段としてマンション居住者で構成される管理組合が原告となり、区分所有法(建物の区分所有等に関する法律)に基づいて教団の退去を求める裁判を起すことが同組合の臨時総会で決定された。これを受けて区も8月25日、当面の裁判費用を貸与するとともに、オウム信者の新規転入届の受理を拒否するとともに教団による区施設の利用を禁止し、さらに区内不動産業者に対して信者と契約をしないよう要請する対策を決定した(※4)。
 教団による「休眠宣言」はまさにこうした方針が決定された矢先のことであり、地元はもとより庁内にも大きな衝撃が走った。またこの休眠宣言は、教団本部が置かれていた足立区内のビル所有者が破産し、9月30日をもって同ビルから退去することになっていた前日に行なわれたもので、しかも豊島区への移転までにわずか1日しか猶予がない緊迫した状況にあった。区はすぐさまその日の深夜に緊急危機管理会議を召集し、翌30日には区長を本部長とする「オウム真理教対策本部」を立ち上げた。一方、本部道場がある池袋本町でも地元住民らが「オウム進入禁止」の看板を掲げてマンション入口前をバリケードで封鎖、マンションの向かい側には見張り用のテントを設置し信者らの出入りに備えた。そして30日当日の午後6時過ぎ、「オウムは出て行け」と書かれた鉢巻きを占めた多くの住民や報道陣が取り囲むなか、本部道場をめざしてやってきた教団広報副部長等の前にオウム対策協議会会長、区長、区議会議長が立ちはだかり、教団中枢部の移転撤回と本部道場からの退去を強く求める抗議文を読み上げた。周囲が騒然とする状況に広報副部長らは道場に入ることが叶わずその場から退去したが、一時の退去では到底、安心できる状況にはなく、直ちにその晩から地元住民らによる24時間体制の監視活動が開始され、区も職員を派遣し、住民らを支援することを決定した。またオウム対策協議会は監視活動が長期化することも視野に入れ、「あくまでも良識ある秩序を守り、統一したルールのもとに行動をしていく」ことを前提とし、「オウムといえども基本的な人権があり、住民運動といえども秩序ある行動と言動で接する。もし、住民側の行動が行き過ぎで、今後の裁判に不利になってはいけない。そのためには説得が基本である(後略)」「本部に時間ごとの責任者を置き、その責任者の元で対応していく」「近隣に対し、騒音、言動には最大の配慮を払う。そのためには、運動に参加する人はアルコールの入った人は参加しないよう連絡をお願いする」という3つのルールが定められた。感情的になりがちな反対運動にあって、こうした冷静かつ秩序だった監視活動が続けられたことは特筆に値する(※5)。
 また10月24日、オウム対策協議会は地元の池袋中学校体育館で「『NO!オウム真理教』豊島区民大会」を開催した。その会場には1,000名を超える区民が結集し、「オウム真理教は豊島区から即刻出て行け!」のシュプレヒコールを挙げ、豊島区民のすべてがオウムの侵入に反対する意思であることを示した。続く10月26日にはオウム対策協議会会長、区長、区議会議長、町会連合会会長ら20名が内閣総理大臣官邸、法務省、自治省を訪れ、オウム真理教団の活動を事実上不可能とする法律の早期制定、教団に対する取り締まり・規制強化、教団の施設・活動に対する地域住民による訴訟を扶助する制度の整備等を要請した。さらに11月10日、本部道場において民事保全法に基づく占有移転禁止の仮処分が執行され、債務者に対し占有の移転その他占有名義変更の禁止が発令された。この仮処分は家屋明渡を求める訴訟が確定するまでの間に本部道場が第三者に転貸されるのを防ぐため、本訴の事前措置として民事保全法で認められているもので、マンション管理組合が9月9日に東京地裁に申し立てていたものである(※6)。
 こうして地域を挙げて徹底抗戦の構えを見せたことにより、オウム真理教団は本部道場への移転を断念、11月30日、道場の鍵を返却し、教団は道場から退去していった。こうして豊島区への教団本部移転を巡るオウム真理教問題は収束し、バリケードは解かれ、2か月に及んだ監視活動も終了に至ったのである。なお10月以降、道場に住民票を置いていた信者はひとりまたひとりと転出していたが、12月27日、最後の3名について居住実態が認められないため、職権により住民登録を削除し、これをもって同住居地に住民票を置く信者はゼロとなった(※7)。
 このオウム真理教移転問題を解決に導いたのは、問題に直面して地域住民自らが立ち上がり、行政と連携しながら断固とした決意をもって立ち向かった結果と言えるだろう。人口密度が高く、巨大ターミナル池袋駅を抱えて人の移動が激しく、さらに都内有数の繁華街を擁する豊島区のような都市では、通り魔事件やオウム真理教問題のような想定外の事件が発生するリスクは常にある。そうした地域性を反映して、区民の行政に対する防犯対策への要望は高いものの、その一方、都市化により地域住民相互のつながりが希薄になりがちななか、町会をはじめとする地域の防犯活動への参加は低下傾向にある。だが様々な犯罪を抑止していくためには、行政や警察はもとより、地域住民の主体的な参加により地域の力を結集していくことが重要な鍵になる。前節でも述べたように、区民をはじめ地域の多様な主体との協働により文化を基軸とするまちづくりが進められたのと同様に、安全・安心なまちづくりも区民との協働なくしてはなし得ない。実際にオウム真理教問題が収束した以降も、区は様々な事件・事故に直面していくことになるが、その都度、「オールとしま」の体制でその解決に向けた取り組みを展開していったのである。
池袋本町オウム対策協議会「『NO!オウム真理教』豊島区民大会」
オウム真理教団「新東京本部道場」から退去

池袋駅東口場外車券売場設置問題

 平成10年代に区民との協働により大きな成果を挙げた事例として、平成12(2000)年から19(2007)年までの7年間に及んだ池袋駅東口場外車券売場設置問題が挙げられる。
 競馬・競輪・競艇・オートレースの公営競技は法律によって認められ、その収益は施行者である各自治体財政に寄与していた(国が出資する特殊法人日本中央競馬会を除く)。だが平成不況等の影響によりギャンブル離れが進み、年々低下傾向にあった収益の拡大を図るため、場外投票券売場や電話・インターネットによる投票システムが導入されていった。
 一方、豊島区においては競馬ブームが加熱していた昭和40年代から既にこの問題が持ち上がり、43(1968)年、46(1971)年、49(1974)年と3回にわたり、場所はそれぞれ異なるがいずれも東池袋1丁目内で日本中央競馬会による場外馬券売場「池袋東口中央競馬会サービスセンター」の設置が計画された(※8)。だがこうした場外券売場の設置については地域の活性化につながるとして賛成する立場と、周辺地域の生活環境が悪化し、青少年の健全な育成にも悪影響を及ぼすとして反対する立場があり、住民間で利害の対立が生じやすい。東池袋一丁目内の設置計画地3か所はいずれも駅前からは少し奥まった場所にあり、繁華街池袋の賑わいから取り残されたような空白地帯であった。そのため地元町会としては是非とも場外馬券売場を誘致してまちの活性化を図りたいとの思惑で動いていたが、しかしいくら公営ギャンブルといえども「賭博」を街なかに盛り込むことによる悪影響は計りしれず、またこと一町会に止まる問題ではなかった。これら3回の設置計画についても賛成派・反対派双方から請願・陳情が出されたが、区議会がいずれも反対派の請願・陳情を採択したことにより設置は見送られ、事態は沈静化したかに見えた。
 だが昭和50(1985)年6月、区内民間会社から東池袋1丁目に自社ビルを建設し、中央競馬会に貸してその一部を馬券売場にしたいとの陳情が提出された。この陳情は前年の49(1974)年に出された設置計画の再検討を求めるもので、地元町会に同意を要請する際の説明が不十分であったとして、新たに区に対する環境整備費の寄附や地元町会への協力金・対策費等の交付のほか、施設一部の区への無償提供、さらに地元が強く要望している公衆浴場の併設等の諸条件が示されていた。この陳情を審査した区議会企画総務委員会では、それまでの経緯からして反対する意見が大勢を占めたが、陳情者である民間会社から示された諸条件について調査する必要があるとの意見が出され、一旦は継続審査とされた。こうした議会の対応に対し、設置に同意したと言われる地元町会を除く周辺町会や商店会、婦人団体等が一斉に反対の請願・陳情を提出、7月には「池袋場外馬券売場設置反対期成同盟」が結成されるに至った。また地元町会の中でも婦人部を中心に、同意は一部役員たちの独断によるものだと反対する声があがり、住民の間に対立が生まれていった。さらに中央競馬会から区に支払われる環境整備費が年間1億円にのぼると見込まれたこともあり、区議会の中でも設置に賛成する議員が出はじめ、前回までのようにすんなりと結論が出せない状況が続いた。そうした膠着状態が続くなか、翌51(1976)年7月2日の企画総務委員会で継続審査を求める動議とすぐさま採決を求める動議が同時に出され、そのいずれもが否決されるという事態に陥り、審議未了でそれまでに出されていた反対請願・陳情38件、賛成陳情29件は廃案となる見込みとなった。だが、そのわずか6日後の7月8日、地元町会の前町会長を代表者とする「池袋場外設置促進協議会」から設置に向けて区議会の英断を求める陳情が提出され、再び事態は泥沼の様相を呈していった。以後、賛成派・反対派双方による陳情合戦はさらに激しさを増し、52(1977)年末までに賛成陳情は278件、反対請願・陳情は実に565件にものぼった。だが区議会での結論が得られないまま、54(1979)年4月末日の議員任期満了をもってこれらの請願・陳情はすべて廃案となり、結果的に場外馬券売場の設置は見送られ、形としては反対派の勝利に終わった(※9)。
 これらの事案からも分かる通り、多くの人が集まる繁華街池袋は場外投票券売場の設置場所として格好の候補地と言える。またその設置を巡っては地域の活性化か生活環境の保全かのどちらに重きを置くかで立場は異なり、そこに「金にモノを言わせ」た事業者がつけ込むなどして様々な利害が絡み、住民間の対立を招くことになった。地域住民の誰もが反対の立場で一致団結したオウム真理教問題とは異なり、この場外馬券売場問題では事態が一応の収束を見た後もなにがしかの「痼り」を地域住民のなかに残す結果になったことは想像に難くない。その後しばらくは投票券売場の設置に関する動きは見られなかったが、20年後、池袋は再びターゲットとなり、地域住民間の分断を招く事態に直面することになったのである。
 発端は平成12(2000)年7月27日、川口オートレースを主催する川口市から同オートレース及び立川競輪の場外車券売場を池袋に設置する計画が示されたことであった(※10)。前述した昭和40~50年代の競馬ブーム全盛時に中央競馬会が乗り込んできた時とは異なり、ギャンブル離れが進み、自治体による公営ギャンブル経営が軒並み赤字化する中で収益の拡大を図る目的で計画されたものであった。設置予定地は前3回と同様に東池袋1丁目内であったが、今回は池袋駅東口至近の明治通りに面し、区役所本庁舎からも目と鼻の先にある一等地だった。その駐車場跡地約1,000㎡に地上8階地下2階建てのビルを建設し、2~3階に川口オートレース、4~6階に立川競輪がテナントとして入る計画で、全国2か所で場外車券売場を運営する株式会社サテライト中越という会社が開発事業者となり、10月には池袋での施設建設にあたる子会社として株式会社アレッグ・サテライトが設立された。
 一つの建物内に二つの場外車券売場が設けられるのは全国初であり、しかもオートレースの場外車券売場は前年にサテライト中越が開設した新潟に次いで2件目、都内では初となるため、レース開催日には数千人の来場が見込まれた。だが予定地周辺は買物客や通勤・通学者の通行が絶えず、ただでさえ狭あいな歩道にさらに人が溢れ、その交通処理はもとより池袋駅の玄関口にギャンブル施設が建つことによる周辺環境への影響が懸念された。一方、開発事業者が場外車券売場の設置を国へ申請する際に、従前は自治体首長の同意が必要とされていたが、平成7(1995)年前後に各競技別に定められている法律の施行規則が改正され、オートレースも競輪も自治体首長の同意は要件から外され、施設や設備等に関する基準が満たされていれば認可されるよう、設置条件が緩和されていた。ただし、申請の前提条件として「地元との調整」が必要とされたが、その地元の範囲に明確な基準はなく所管庁の指導によるとされ、この時は設置予定地の周辺5町会がその範囲とされていた。このため開発事業者の代理人である弁護士がいち早くこの地区に入り、清掃・警備等の周辺環境対策をはじめ、開催に伴う備品・消耗品の購入や新たに生じる雇用についてはすべて地元から調達することなどを説明しに回っていた。こうして場外車券場設置計画は早々に知れるところとなり、直接の働きかけを受けていた地元町会や商店会はもとより、次第に区民の間にも様々な噂が流れ始めた。その中には、年間売上見込み額1,000億円の1%にあたる10億円が地元自治体である豊島区に配分されるという話まで出まわっていたのである。
 こうした状況のなか、この設置計画に真っ先に反対の声をあげたのはこれまでと同様、女性や子育て関係者たちだった。9月25日から27日の3日間に豊島区婦人団体協議会(以下「婦人団体協議会」)をはじめ、豊島区自主グループ連絡会や子育てグループ、青少年育成委員会等から設置に反対する6件の陳情が立て続けに区議会に提出された。いずれも周辺環境の悪化が反対理由であったが、特に近隣に小・中・高等学校や専門学校等が多く立地していることから青少年への悪影響を強く懸念するものであった(※11)。
 これらの陳情が審査された平成12(2000)年9月29日開会の区議会第3回定例会では、3会派の議員により場外車券売場設置問題が一般質問で取り上げられた。その質問要旨は、「場外車券売場の設置には当然のことながら賛否両論ある。これから議論すべき問題であり、まず事実経過や公営競技の内容、売上金の配分先、設置場所周辺に与える影響などをはっきりさせなければならない」、「特別区が運営する大井競馬も含め公営ギャンブル全般の収入が減少の一途をたどっているなか、その経営実態や年間10億円といわれる配分額等について検証しているのか」「豊島区では20数年前にも場外馬券売場問題が起き、多くの区民の反対でこれを中止させた。新宿・荒川・墨田区でも地元住民たちの反対運動により設置が断念されている。場外売場の設置に対する自治体首長の責任は重く、区長として明確な姿勢を示すべきである」など、会派によりこの問題を糾す姿勢に温度差が見られ、区長も「区議会での議論を経た後、区民全体の利益を守る立場から賛否について表明したい」として、その時点では慎重な答弁に止めていた。
 そして10月11日、陳情の審査を付託された総務委員会において請願の審査が開始された。だが一般質問で会派により場外車券売場の設置に対する考え方が微妙に異なっていたように、陳情の主旨は多くの区民の切実な声であり即刻採択すべきという会派と、今回提出された陳情が設置に反対する区民からのみであり、地元では前向きな動きも見られることからより広い区民の意見を把握する必要があると主張する会派とで意見が分かれ、委員会審査は10月25日に持ち越された。このため区は区議会の要請に従い、設置予定地周辺5町会の各町会長に状況を確認したところ、設置予定地にあたる東池袋一丁目中央町会は「反対しない」との結論に達しているとのことだったが、残り4町会は総意をまとめる段階に至っていないという状況だった。一方、こうした区議会の審査状況に危機感を抱いた婦人団体協議会は翌12日から署名活動を開始、青少年育成委員会も25日までに1,000人を超える署名を集め議会に追加提出した。また女性団体や小中学校PTA保護者代表など13団体から設置に反対する要望書・意見書が区に提出され、区の広聴にも反対の立場の区民からの意見が寄せられていた。こうして10月25日、100人近い傍聴者が審査の行方を見守るなか、総務委員会は再開された。だがこの日も陳情の取扱いについて意見が二つに分かれ、採決の結果、6件の陳情はいずれも継続審査の取扱いとされた(※12)。
 この委員会審査報告を受け、婦人団体協議会等はすぐさま「ギャンブル車券場設置に反対する区民の会」を結成、署名運動を大々的に展開し、11月21日には4,241名の署名を付して改めて「池袋駅東口前の場外車券場設置に反対する請願」を区議会に提出した。これに続きかつての場外馬券売場問題で反対運動を展開した女性たちをはじめ、豊島区親子読書連絡会等の子どもに関わる活動団体、保育所、区立中学校PTA会長会、保護司会、覚せい剤等乱用防止推進豊島地区協議会などから設置に反対する請願・陳情が次々と提出され、その数は請願4件、陳情9件に及び、前回継続審査とされた陳情6件の追加署名も含め、場外車券売場の設置に反対する署名数は1万人を超えた。一方、設置に賛成する区民らからも陳情7件が寄せられたが、それらは地元町会や商店街等から出されたものではなく、ほとんどが有志や個人名で提出されたものであった。またその主旨も、地元地域の活性化と言うよりも、危機的な財政状況に直面している区に対し、車券売場の設置により得られる配分金を新たな財源として教育施策等の充実を図るべきという内容だった。また直接的な賛否を示すものとは別に、区として設置予定地周辺の諸環境を詳細に調査し区議会に報告するよう求める陳情と場外車券売場建設に関する情報を地元以外の区民にも周知徹底するよう求める陳情の2件が提出された(※13)。
 平成12(2002)年11月30日、区議会第4回定例会総務委員会において、これら新たに提出された請願4件・陳情18件及び前回定例会で継続審査の取扱いとされた陳情6件も含めた28件についての審査が開始された。その日の審議の中で、区では把握しきれない事実関係を確認するため、主催者である川口市と開発事業者であるアレッグ・サテライトを呼んではどうかという提案がなされ、また場外車券売場設置に賛成の陳情者の一人についても陳情の主旨について確認するために出席を要請することとし、委員会は12月5日に持ち越された。その12月5日当日、川口市からは公営競技事務所長が参考人として出席したが、アレッグ・サテライトの代表は病気を理由に欠席となった。また出席を要請した陳情者についても、陳情書に記載された住所を調査したが居住が確認できず、連絡が取れない状況だった。このため、その日は川口市公営競技事務所長のみの参考人質疑となったが、当然のことながら川口市としてはできれば池袋に進出したいとの考えに立っていることから、委員からの様々な質問に対し、同事務所長は施設の運営は設置事業者の責任ではあるが施行者としても可能な限り対応するという説明に終始した。特に川口オートレースは49年の歴史を有し、時代とともに公営競技に対する認識やファン層も変化してきており、周辺に迷惑をかけるような事例はなくなっていることを強調し、設置に反対する請願・陳情者たちが最も不安視している青少年への影響についても、ビル1階に警備員等を配置してチェックするので未成年者は入場も車券を購入することもできないとの説明が繰り返された。
 こうした質疑後に再開された委員会では、川口市側の説明に納得できる部分が多いとする意見とそのまま鵜呑みにはできないとする意見で評価が分かれた。また請願・陳情28件の取扱いについても、アレッグ・サテライトからの事実確認も必要だとする会派と、既に同社が申請のための手続きのために何度も所管庁である通商産業省(2001年「経済産業省」に再編)へ通っている状況が見られたことから、一刻の猶予もなく区議会として設置反対の意思表示をすべきとする会派との間で激しい意見の応酬が繰り広げられた。そして本来ならばその日が総務委員会審査の最終日で請願・陳情の取扱いについて採決する予定であったが、アレッグ・サテライトに質問状を送りその回答を得て判断することとし、第4回定例会最終日にあたる12月8日まで審査を持ち越す異例の措置が取られた。だがその回答期限の12月7日までにアレッグ・サテライトからの回答はなく、代わりに12月15日までに回答する旨が弁護士を通じて伝えられた。こうした状況で8日に開催された総務委員会では前回同様に会派間の意見は平行線をたどり、採決の結果、賛成多数により請願・陳情28件はいずれも閉会中の継続審査の取扱いとされた。また第4回定例会閉会後の12月25日に改めて総務委員会を開き、請願・陳情の審査を行なうことになったが、これは閉会中の委員会審査であり、区議会としての決定は本会議でなされるため、その場で採択・不採択あるいは再度継続審査のいずれの結果が得られたとしても、区議会としての正式な決定は年を越して平成13(2001)年3月の本会議まで持ち越されることになったのである。
 1万人を超える反対署名を集め、第4回定例会が始まってからも署名運動を続けていた反対請願・陳情者たちにとって、前回に続き2度までも自分たちの訴えが採り上げられなかったことへの落胆は大きかったが、それでも運動の手を緩めず、12月25日までにさらに追加署名を提出し続け、反対署名数は2万人に達した。また同定例会の会期中に豊島区更生保護婦人会から「池袋東口駅前の場外車券売場設置に反対する陳情」が提出され、進展が見られない議会審議をよそに、場外車券売場の設置に反対する区民の声は日に日に拡大していったのである。
 一方、12月15日付でアレッグ・サテライトから提出された回答書の概要は以下の通りであった(※14)。
  • ①本券建物の配置図、各階平面図、立面図等、施設の概要が判読可能な図面
    各図面添付。メインの出入口については、今後、運営協議会において決定する
  • ②貴社の経営方針及び本券建物の運営要領
    当社は公営競技の施行者(立川市、川口市)に建物を賃貸する不動産管理事業者である。本件建物の運営はサテライト会津(福島県喜多方市)、サテライト中越(新潟県栃尾市)と同様に「地元行政当局、地元議会代表者、施行者(立川市、川口市)、当社(設置者)」で構成される運営協議会の決定に従って運営され、同協議会により開催日数を始め、運営に係わる諸問題を解決する。従って当社の運営方針は運営協議会に一任される。
  • ③周辺の交通対策及び環境美化対策
    交通対策は施行者(立川市、川口市)と警察との協議事項であり、当社は行政当局間の協議には参加できないが側面より協力する。環境美化については地元町会と協議の上、地元雇用による清掃会社の設立に協力し、周辺のゴミ問題等、環境美化に努める
  • ④風紀、防犯(警備対策)
    風紀、防犯(警備)は施行者(立川市、川口市)と警察当局との協議事項であり、当社は協議に参画できないが、協議決定事項には誠意をもって且つ積極的に協力する。
  • ⑤本券建物に係る区議会及び区長の意見に対する貴社の認識
    本件施設設置申請許可は貴区の所管外事項となっているが、施行規則(法律)により運営協議会が設立され、貴区並びに議会代表が委員として参画され、施行者と協議運営されるものと理解をし、当社もその委員として参画し協力する。
 これらの回答内容からも分かるとおり、アレッグ・サテライトはあくまでも建物の賃貸・管理業者であり、また運営方針を決定するのは「地元行政当局、地元議会代表者、施行者(立川市、川口市)、当社(設置者)」により構成される「運営協議会」であり、周辺交通対策をはじめ、懸念される周辺環境の悪化防止対策は施行者と警察が決めることであって、それに協力する立場にすぎないとの姿勢を示していた。さらにこの場外車券売場の設置を巡って区議会での審議が継続されているにもかかわらず、申請許可は区の「所管外事項」であるとし、文末に「貴区議会並びに区長におかれましては、種々、御議論をされていると伺っておりますが、当社としては上記質問事項、その他当社として地元とも協議を重ね対応できる事項につきましては、万全をもって対処する所存であります」と尤もらしく述べつつも、区議会や区長の意見を考慮する気などまったく無いことは明らかなものだった。
 この回答を受け、年も押し迫った12月25日、継続審査の取扱いとなっている請願・陳情28件に新たに付託された陳情1件を加え、計29件について審査するため総務委員会が開催された。この日の審議の中で、それまで継続審査を主張してきた2会派のうち1会派から「あの場所に車券場を設置するのは非常に難しい」との見解が示され、実質的に設置反対の側に回った。だが残る1会派は「公営競技そのものには反対しない、区の財政状況や地域の活性化を望む声等を踏まえ設置には賛成であるが、場所については再考の余地がある」と述べるに止め、29件の請願・陳情については引き続き継続審査の取扱いを求めた。意見が分かれたため挙手による採決に入り、まず29件一括で継続審査とすることについては挙手少数により否決された。続いて各請願・陳情について1件ずつ採決が行なわれ、場外車券場の設置に反対する請願・陳情20件及び車券場建設の情報の周知徹底を求める陳情は賛成多数により採択され、場外車券場の設置に賛成する陳情7件及び設置を前提とする周辺環境の詳細な調査を求める陳情は賛成少数(挙手無し)により不採択とされた。
 こうして9月から4か月にわたり審議されてきた場外車券場の設置に関する請願・陳情はようやく結論を見るに至り、それまで反対・賛成の意思表明を保留していた区長も、委員会の最後に「本委員会の結論を豊島区の意思として対応していきたい」と述べ、委員会終了後、場外車券売場設置問題について「豊島区長として反対する」とのコメントを正式に発表した(※15)。また翌26日には早速、川口・立川両市に設置計画に反対する旨を伝えるとともに、関東通商産業局長に設置を許可しないよう申入れた。
 しかし、こうした区長及び区議会の反対表明により問題は解決したわけではなく、前述したようにアレッグ・サテライトは区や区議会の意見を申請の要件ではないとし、一考することもなく計画を推し進めようとした。その証拠に年が明けた平成13(2001)年2月14日、同社は地元5町会の町会長や関係事業者以外の入場をシャットアウトする非公開の住民説明会を強行開催したのである。これに対し区長は遺憾の意を表明、「このことによって場外車券売場が池袋に設置されることがないよう、区として反対の立場を貫いていきたいと思います。池袋を『だれからも愛される街』にするために、地域の皆さんが設置反対の意思を明確にされることと信じております」とのコメントを発表した(※16)。翌15日、こうした事業者の姿勢に不信感を抱いた池袋東口本町会が地元5町会の中でいち早く設置反対を表明した。また16日に開会した平成13年区議会第1回定例会の一般質問で、この住民説明会の様子としてアレッグ・サテライトの代表が「区長や議会の反対など関係ない」と発言をしていたことが伝えられ、場外車券売場設置計画に対する姿勢を問われたのに対し、区長は改めて反対の意思を貫く覚悟を表明した。区議会も前年12月25日の総務委員会による請願・陳情審査報告を受け、3月23日の本会議で「池袋駅東口場外車券売り場設置計画に反対する意見書」を採択し、経済産業大臣及び川口・立川両市長宛に送付した(※17)。
 その後1年余りは目立った動きは見られず、場外車券売場問題は沈静化したかに思われた。だが平成14(2002)年6月11日、アレッグ・サテライトが設置許可申請書を経済産業省関東経済局に提出し、同局がこれを受理したことが明らかになった。区長として正式に反対を表明し、設置申請の取扱いについて慎重な対応を繰り返し要請してきたにもかかわらず、水面下で手続きが進められ、突然、申請が受理されたことは到底認められるものではなかった。翌12日、区長は抗議のコメントを発表するとともに、経済産業大臣宛てに申請を許可しないよう求める要望書を直ちに提出した(※18)。
 受理された場外車券売場設置計画は、建設予定地や川口オートレースが入ることに変更はなかったが、当初計画時の立川競輪に替わり西武園競輪(施行者:所沢市、川越市、秩父市、行田市)と大宮競輪(施行者:川口市、さいたま市、熊谷市)のふたつの車券売場が入ることになっていた。このため区は施行者である7市に来庁を要請、6月14日に7市の幹事市として来庁した川口・行田・さいたま3市の担当者に計画の撤回を求める要望書を直接手渡すとともに、残り4市にも同要望書を送付した(※19)。だが施行者である市側担当者は「区の要望内容は検討する。ただ7市は設置申請者ではなく、完成した施設を使うだけで、撤回する立場にない。同様に申請段階で区に連絡する義務もない」(川口市公営競技事務所長、平成14年6月15日付『毎日新聞』)と述べていた。まるで第三者のような発言だが、公営競技の収益が著しく減収し、赤字を抱えている各市が池袋への進出に期待を寄せていることは明らかだった。
 こうした事情は公営競技を管轄する国も同様で、競輪・オートレースを所管する経済産業省も「区から反対の要望が出ているのは知っているが、審査やその結果に影響を及ぼすことはない」(製造産業局車両課、同6月25日付『産経新聞』)と述べており、申請が受理された以上、いつ許可が下りてもおかしくない状況だった。設置計画を阻止するためには設置事業者であるアレッグ・サテライト、施行者である7市はもとより、その許可権限を有する経済産業省への働きかけが鍵になっていた。このため6月17日、区長自ら経済産業省に出向き、12日に提出した経済産業大臣への要望書に重ね、設置を許可しないよう直接申し入れを行なった(※20)。さらに翌18日には区長を統括本部長とする「池袋場外車券売場設置対策本部」を設置し、何としてもこの計画を阻止するべく全庁あげての体制を組んだ(※21)。またこれに先立つ13日には区ホームページに場外車券売場問題に関する情報コーナーを開設し、設置阻止に向けて区民の声を結集していくためリアルタイムで情報を提供していくとともに区民からの意見を募集した。
 この申請受理の知らせに区民の間にも驚きと怒りの声が湧き上がり、6月17日から19日のわずか3日間に「ギャンブル車券場設置に反対する区民の会」をはじめ、青少年育成委員会、町会連合会等から設置に反対する請願3件・陳情6件が次々に提出された。一方、設置に賛成する陳情3件も提出されたが、その中には設置予定地の東池袋1丁目町会副会長(東池袋ウイロード商店街振興組合副理事長)の名前で提出された陳情も含まれていた(※22)。前述したように地元の同意は設置許可の法的要件ではなかったが、申請の前段階として所管庁である経済産業省は地元に受け入れられるよう設置事業者を指導するとされていた。申請にあたって地元の同意を裏付けるどのような書類が提出されたのかは定かではなかったが、前年2月に地元5町会のうち一町会は設置反対を表明しており、またこの賛成陳情が町会長名ではなく副会長名で提出されたものであったことからも、設置賛成が地元の総意ではないことは明らかだった。
 こうしたなか、6月21日に開会した区議会第2回定例会は開会初日に「池袋駅東口場外車券売場設置に断固反対する決議」及び「池袋駅東口場外車券売り場設置不許可を求める意見書」を全会一致で可決し、区議会としても設置反対の意思を改めて示した(※23)。また24日には区と区議会の共催による「池袋場外車券売場設置反対『緊急区民大会』」が開催された。会場となった豊島公会堂に約1,000人の区民が結集し、「池袋をギャンブルの街にするな」「計画撤回」などの声が次々にあがった。そして大会の最後に「ここに我々豊島区民は、経済産業省が直ちに池袋場外車券売場設置許可申請を不許可とし、株式会社アレッグ・サテライトが即刻、場外車券売場設置許可計画を断念するよう、強く求めるものである」と宣言する緊急アピールが読上げられ、満場の拍手により採択された(※24)。
 この緊急区民大会から2日後の6月26日、区は生活安全条例の改正案を区議会に提出、区議会はその日のうちにこの改正条例案を可決、即日公布・施行された。同条例は安全で明るい街づくりを推進するため平成12(2000)年11月に制定された条例であるが、この改正により第1条「目的」に「良好な生活環境の形成」の文言を加えられるとともに、第8条「公営競技の場外車券売場設置者の責務」として、競輪・オートレース・競馬・競艇の各公営競技の場外券売場を設置しようとする者に対し、「場外券売場の設置が区民の生活環境に及ぼす影響について、区民に説明し、理解を得るよう努めなければならない」及び「区民の理解が得られるまでは、場外券売場を設置してはならない」とする規定が新たに設けられた。経済産業省がいつ設置許可を下ろすか分からない状況の中で、自治体の自主立法権を活用し、自治体としての意思を最大限に示す対抗措置であった。まさに「豊島区“速攻” 一夜にして規制条例制定」(平成14年6月27日付『毎日新聞』)と言える区と区議会の連係プレーだったが、条例そのものに拘束力は無く、経済産業省も「条例の有無が許可に影響することはない」(同『朝日新聞』)としていた(※25)。
 一方、区議会に提出されていた請願・陳情12件の審査は7月1日・2日の2日間をかけて総務委員会で行なわれ、設置反対の請願3件・陳情6件はいずれも採択され、賛成の陳情3件は不採択とされた。この委員会審査結果に基づき、7月5日、定例会最終日の本会議で「池袋駅東口場外車券売り場設置計画の撤回を求める意見書」が採択され、8日には総務委員会正副委員長が施行者である7市に直接出向いて提出した(※26)。
 またこの7月5日の午後、区議会本会議を一時中断し、区長、区議会正副議長並びに各会派幹事長、区民代表して町会連合会及び商店街連合会各代表ら10名が平沼赳夫経済産業大臣を訪問し、池袋場外車券売場設置計画について不許可とするよう要請した。この要請行動は前日まで古屋圭司副大臣が応対する予定だったが、急遽、その日の朝に大臣自らの意向により変更になったもので、面談の場で大臣からは「法治国であるから様式・書式が完備していれば(申請を)受理する。今後については、地域住民の意向をしっかり調査し、検討していくという手続きを踏んでいく。今はまさにその過程にある。そうした中で、皆さんにお出でいただいたことを重く受け止めさせていただく」との発言を得た。この大臣発言は地元の意向も検討材料であることを示唆したものであり、設置阻止に向けて一歩、前進したものと捉えられた。またこの大臣発言を受け、審査を担当する同省車両課長も報道取材に対し、「地元の意向は大事な情報として反対の声、賛成の声、きちんと収集のうえ、粛々と審査を進めたい。業者についても、出来るだけ地元の理解を得るように指導したい」(平成14年7月6日付『朝日新聞』)と応えていた。だがこれまで申請を受理して不許可とした前例はなく、依然として予断を許さぬ状況は続いていた(※27)。
 経済産業省がどのような判断を下すかに注目が集まるなか、経済産業省車両課が「提出されている資料では、地元は多数賛成している」(同6月29日付『朝日新聞』)と述べ、アレッグ・サテライトの代理人弁護士も「地元の5つの町会のうち、4つは役員に会って『賛成』か『反対しない』という文書に署名、押印をもらっている。同意を得る手続きはきちんと行なっている」(同7月8日付『産経新聞』)と言っていることが新聞報道された。だが実際に朝日新聞の記者が地元町会役員を取材してみたところ、それらの同意書を得るために代理人弁護士が地元町会等を回っていたのはまだ区・区議会が設置反対の意思表明をしていなかった平成12(2000)年秋頃のことで、しかもその際に押印を求められた文書内容は設置予定地にあたる「東池袋一丁目中央町会が設置に賛成していることに反対していません」というものや、地元の祭りで兄弟関係にある兄町会に「歩調を合わせる」というものだったという。中には「サインも何もしていない。一度、頼まれて説明会に行っただけ」、「反対も賛成も町会として決めていないし、同意を求める書類など見たこともない」と憤る町会長もおり、当の東池袋一丁目中央町会も「前向きに考えるという態度だが、環境整備をどう考えているかを示す返答が業者側から文書で来ていない。条件が整わないうちに、賛成文書を渡すことはない」としていた(以上いずれも平成14年6月29日付『朝日新聞』)。事業者側が提出したとされる地元の同意文書は、その信憑性が疑われるものだったのである。
 こうした状況のなか、7月17日、設置事業者であるアレッグ・サテライトの代表取締役が来庁し、区長との初の直接会談が行なわれた。だが区長が設置計画に反対する意思を改めて示したのに対し、同社代表は設置に向けて計画を推進していく姿勢を崩さず、翌18日、同社は地元住民・事業者等を対象とする2回目の説明会を開催した。この説明会は前年2月に開催された非公開の説明会とは異なり、反対派区民も入れて賛成・反対双方約90人の出席のもとに開かれた。だが事業者側の設置計画についての説明後に行なわれた質疑の中で、青少年への悪影響や周辺環境の悪化を不安視する意見に対し、同社代表は「反対意見も賛成のうちとして参考にする」と応じたため、反対派区民から抗議の声が一斉にあがった。また区長も同日、「説明会は、単に許可をもらうためのアリバイ作りとしか考えられず、到底認められるものではない。この説明会の開催をもって、地元区民の理解を得たとすることは、絶対許すことはできない」と強く抗議した(※28)。
 こうして設置事業者が強硬に計画を進めようとする一方、それまで沈黙を保っていた地元の商店主やビルオーナー等からも懸念の声が出始め、さらに個別に活動していた団体や個人に連携していく動きが出てきた。そして7月29日、場外車券売場の設置に反対する池袋東口本町会や池袋東地区環境浄化推進委員会、自主グループ連絡会、青少年育成委員会連合会等諸団体の呼びかけにより、「池袋東口場外車券売場設置反対連絡協議会」(以下「設置反対連絡協」)が結成された。各団体代表者約150名が参加し、同日開催された結成総会では「設置に反対する区長、区議会とともに先頭に立って最後までがんばる決意である」との総会アピールが採択された。だが、これまで反対運動の経験等のない地元の人たちにとっては、当初は戸惑うことが多い日々が続いた。そうしたなか、東口の商店会などをメンバーとする池袋東地区環境浄化推進委員会が、建設予定地際から池袋駅東口一体のすべての街路灯に、一斉に「場外車券売場設置断固反対」「絶対阻止」のバナーフラッグを掲げた。歩道沿いにはためく赤や黒のフラッグは相当のインパクトがあり、これにより設置問題を知った人も少なくなかった。こうした活動に触発され、設置反対連絡協は以後、駅前街宣活動等を通じて1万人を目標とする反対署名運動を開始した。結成から2か月後には目標を超える1万6千人以上の署名を集め、10月3日にそれら署名を付して設置不許可を求める文書を経済産業省に提出した。区長も「地域の声が結集され、協議会が発足したことで、地元、地域の反対の意思はより強く、明確なものとなった。区民の方々とともに、設置阻止に向け、断固たる意思を貫いていきたい」と設置反対連絡協の結成を後押しし、区庁舎に「池袋場外車券売場設置断固反対」の懸垂幕を掲出するとともに、9月9日には設置反対世論の広がりを踏まえ、一刻も早く不許可の判断をされるよう求める文書を経済産業大臣に送付した(※29)。
 しかし、こうした地域をあげての設置反対運動にもかかわらず、10月19日、設置事業者アレッグ・サテライトによる3回目の住民説明会が開催された。区はその前日18日に説明会の即刻中止を求める抗議文を送付したが、それを無視しての開催であった。同社代表は「反対意見はあるが絶対に造る。取り下げはしない。反対意見は必ずある。意に介していない」(平成14年10月20日付『毎日新聞』)と強気の発言を繰り返し、10月29日には4回目の説明会を開催するとしていた。説明会を重ねることで地域への説明責任を既成事実化としようとしていることは明白であった。本来は区民の理解を得るために開催されるべき説明会をただ形式的に開催しているだけの事業者の実態を訴え、申請を不許可とするよう、区長は再度、経済産業大臣に要請文を送った(※30)。
 また設置反対連絡協も10月29日、アリバイ作りの説明会を繰り返す設置事業者に対抗して池袋東口駅頭で緊急反対集会を開催、設置計画阻止に向けた声明文を読みあげ、約250名の参加者全員で「断固反対!」のシュプレヒコールを挙げた。さらに11月25日にはより多くの人に場外車券売場設置問題について考えてもらい、反対運動の輪を広げようと『池袋場外車券売場設置問題を考える』シンポジウムを開催した。その冒頭であいさつに立った区長は、「設置反対運動はまさに国に対する自治体の戦いとも言えるもの。地方分権の流れの中で街づくりについて、独自の新たなビジョンが求められており、文化の薫り高い街づくりを進めていくためにも、設置阻止に向け最後まで戦い抜く」との決意を表明した。また競輪の場外車券売場設置許可が出され、その無効確認と取り消しを求める行政訴訟を起こしていた大分県日田市の大石昭忠市長も駆けつけ、「どういう街づくりを進めるか…自治体にも独自の決定権があるはず。そうした『街づくり権』を問う戦いでもある。ともに最後までがんばりましょう」とエールを送った(※31)。
 こうして区・区議会・区民が一体となった設置反対運動の気運が益々高まる一方、申請受理から半年近くが過ぎても経済産業省による許可・不許可の判断は下されなかった。その年も押し迫った12月27日、区長は設置不許可を求める要望書を経済産業大臣宛に再度送った(※32)。なおこの要請文の中で、区長は「今後、地元の方々と協議しながら、文化性の高い街づくりを進めていく」と述べているが、それは7月の要請行動の際に池袋のまちにギャンブル施設は要らないと訴えたのに対し、同大臣から「では、区長はどういうまちを創ろうとしているのか」と問われたことに対する回答であった。この平成14(2002)年という年は前節でも述べたとおり、区制施行70周年を契機に「文化を基軸とするまちづくり」がスタートした年でもあったのである。
 場外車券売場設置問題に解決の糸口が見つけられないまま、平成15(2003)年が開けた1月28日、国を相手取って場外車券売場設置許可の取消訴訟を起していた日田市に対し、「原告適格を欠き、訴えは不適当」と同市の請求を棄却する判決が下された(※33)。この門前払いとも言える判決に区長は地方分権の流れに逆行するものと憤りのコメントを発表したが、それは取りも直さず豊島区も同様の取扱いをされる可能性が十分にあることを意味していた。それでも地元の同意は許可要件ではないと言いながらも、経済産業省が許可の判断をなかなか下せないでいるのは、「地元の調整が十分ではなく、いつ結果が出せるかは分からない」(平成15年2月24日付『読売新聞』)というように、区を挙げての反対の声が思いのほか強かったからに他ならない。だが、赤字経営が続く公営ギャンブルのテコ入れ策として都内有数の繁華街・池袋に場外車券売場を設置したいとの思惑は、設置事業者や施行者である7市、競輪・オートの収益の一部が補助金として交付される日本自転車振興会や日本小型自動車振興会のみならず、これら振興会の外郭団体を同省OBの天下り先としている経済産業省にしても同様であったに違いない。設置計画阻止の闘いは、まさに自治体としての国に対する闘いと言えた。
 このため区は国に対する働きかけを緩めることなく、平成15(2003)年2月13日、区長が経済産業省を訪れ、西川太一郎副大臣に不許可の判断をするよう申入れたのに続き、2月25日には区議会及ぶ地域住民代表を伴って再び同省を訪れ、平沼赳夫経済産業大臣並びに西川太一郎同副大臣と面会し、不許可を求める要請文を手渡した。この面会は前年7月以来、経済産業大臣への二度目の要請行動となるものであったが、同大臣は、「こうして、たくさんの皆さんにおいでいただいたことを真剣に受け止めている。一方、推進の立場の方々も来られており、そうしたこともあって慎重に考えさせていただいている」と前置きした上で、「皆さんのお話、気持ちを良く汲ませていただき考えていきたい」と応えた。また同副大臣も「(申請を)受理した以上は答えを出さなければならない」と省としての立場を述べた上で、「国家としての政策もさることながら、民主主義、地方分権の時代にあって、第一義的な自治体である区と区民の代表である区議会が超党派で出した判断を軽々に扱うつもりは毛頭ない。皆さんのご意向を加味して検討するよう指示していきたい」と述べ、区が進める文化のまちづくり、安全・安心なまちづくりへの理解を示した(※34)。
 以後、区・区議会・区民が一体となった要請行動は5月28日(西川副大臣)、6月12日(平沼大臣)と重ねられ、10月7日には新たに就任した中川昭一経済産業大臣に対しても行なわれ、「この問題については平沼前大臣からも話を伺っており、平沼大臣の考えを引き継いでいく」との発言を新大臣からも得た。これら要請行動に参加した区民代表は当初の町会連合会、商店街連合会に加え、設置反対連絡協、PTA連合会、育成委員会など回を重ねるごとに増えていき、大臣室に入りきれないほどになっていった。「お会いする回を追うたびに、反対の層が厚くなっていると率直に感じる」(5月28日)と西川副大臣が述べたように、場外車券場の設置に反対する区民の広がりと熱意が経済産業省の許可判断に歯止めをかける大きな力となったことは言うまでもない。6月5日、前年に続き2回目の開催となった「池袋場外車券売場設置反対緊急区民大会」には1,000人を超える区民が結集し、再び「断固反対!」のシュプレヒコールが豊島公会堂に響きわたった(※35)。
 一方、設置反対連絡協も署名活動を継続し、平成15(2003)年4月時点で反対署名数は4万人に超えていた。また6月24日、競輪・オートレースの場外車券売場設置にあたって地元自治体及び住民の意見を反映できるよう法令改正を求める意見書の国への提出を要望する請願を都議会に提出、7月4日に開催された都議会総務委員会で採択された。さらに結成1周年を迎えた7月29日には、池袋東口駅前から霞ヶ関の経済産業者までの約15kmのウォーキングラリーを敢行、約50人の参加者が雨の中を歩き、終着点の経済産業省前で街宣活動を行なうなどして設置反対をアピールした(※36)。
 そして同年5月以降、こうした設置反対連絡協の活動に地元町会とPTAが加わった。
 5月8日、当初から設置反対の立場を表明していた池袋東口本町会会長と設置反対連絡協代表が経済産業省を訪れ、地元5町会の町会長名による設置反対文書5通と設置予定地の東池袋一丁目中央町会を除く4町会名による設置反対文書4通の計9通の書面を同省車両課長に手渡した。また設置反対連絡協代表からは12,203人分の反対署名(提出済みと併せ累計47,922名)が提出された。設置事業者であるアレッグ・サテライトが申請時に提出したと言われる地元町会等の同意文書については、前述したように前年6月の朝日新聞記事でもその信憑性が疑われていたが、地元5町会の町会長全員が設置反対の署名文書を提出したことにより、事業者側の主張は覆されることになった(※37)。
 さらに5月22日には地元5町会の中で唯一、設置に賛成したと言われる東池袋一丁目中央町会の総会が開かれ、町会として賛成の決議を行なったのかを糾す質問に、当時の町会役員から「決議はしていないが、街の活性化につながるなら条件付で推進していくということになっている。町会は中立の立場で変わっていない」との説明があり、地元町会から提出されたとする同意書も事業者が画策して作りあげたものに過ぎず、町会の総意によるものではなかったことが明らかにされた。この役員発言に同町会内部からも反対の声が次々にあがり、改めて町会としての総意をまとめるべきだと11月15日に臨時総会を開き、場外車券売場の設置に反対する決議がなされた。翌々日の17日には同町会長等代表5名が経済産業省を訪れ、この反対決議文とともに、設置事業者が地元同意の証拠として同省に提出している同町会役員総会による同意書並びに議事録の無効決議を提出、これによりアレッグ・サテライトが地元同意の根拠としていたものは完全に失われることになった。続く11月20日、区長は区議会正副議長、同町会長、設置反対連絡協代表らとともに同省製造産業局長に面会し、「設置許可申請が受理されてからすでに1年半近くが経過しており、最早これ以上結論を先延ばしにすることは望ましいこととは思えない。今回の地元町会の反対決議により結論は明らかになったと確信している」として早急に不許可とするよう強く求めた(※38)。
 またPTAの中からも設置に反対する新たな動きがあった。5月21日、区立小学校PTA連合会会長により設置事業者であるアレッグ・サテライト及び同社代表取締役を公正証書原本不実記載罪の疑いで刑事告発する文書が東京地裁に提出された。その告発理由は平成12(2000)年10月17日にアレッグ・サテライトが東京法務局出張所に商業登記した所在地に会社は存在せず、実体のない会社による商業登記簿は公信性を侵害するものであり、刑法で禁止されている賭博の特別解除にあたる公営競技の場外車券売場の申請者が設立時から違法行為を犯していた事実は看過できるものではないというものであった。敢えて刑事告発にまで及んだのは人の子の親として止むに止まれぬ気持ちから行動を起こしたものであり、「国にしっかりと審査してほしいという気持ちを伝えたかった」(平成15年5月23日付『読売新聞』)からであった(※39)。
 また6月12日、平沼赳夫経済産業大臣への要請行動に参加した区立小学校PTA連合会副会長から建設予定地周辺の区立南池袋・豊成・朋有・池袋第一の4小学校各PTA会長の連名による公開質問状が提出され、翌13日には豊島・板橋・北・文京4区の都立高等学校17校PTAで組織する都立高等学校第4学区PTA連合会からも同大臣宛公開質問状が提出された。これらの質問状は児童の通学路にあたる設置予定地周辺の環境・通行対策をはじめ、設置事業者の姿勢や適格性、許可行為の法的性格や法的要件の基準等について問うものであった。7月10日にはその回答をもとに、さらに疑問点について各関係者の説明を聞くための説明会が朋有小学校体育館で開催された。公開質問状を提出したPTA会長らにより主催されたこの説明会には、設置事業者であるアレッグ・サテライト代表と代理人弁護士、管理施行者である7市(秩父市欠席)の各担当課長、日本自転車振興会並びに日本小型自動車振興会の各場外推進室長、設置計画地所有会社次長、また区からは政策経営部長が出席したが、経済産業省は地元と調整する立場にないとの理由で欠席した。説明会当日、参加者たちからは設置予定地の土地の権利関係や設置事業者の法人登記の問題、国の指導要領に基づく設置基準の適合性などの疑義について質問が出され、また子どもたちへの悪影響を懸念する声が次々にあがった。だが設置事業者側は法的に問題ないと繰り返すばかりで、施行者等も国が許可するならば信用するしかないなど責任回避の回答が相次ぎ、最後に「区・区議会・区民が揃って反対しており、問題のある申請であるにもかかわらず、それでも強行するのか」と言う問いかけにアレッグ・サテライト代表が「万難を排して決意したことを強行する」と応じたため、強行するならば「PTAは断固反対で闘わざるを得ない」との結論に至った。そしてこの説明会の結果をもって7月17日にはPTA会長代表5名が経済産業省を訪れ、説明会の記録ビデオと説明会で明らかになった問題点をまとめた大臣宛ての文書「東京都豊島区池袋東口賭博場開設について」を提出し、改めて経済産業省の見解を求めるとともに、許可申請を差し戻すべきであると強く申し入れた(※40)。
 こうした地元町会やPTAの動きは設置反対連絡協の活動にも大きな変化をもたらした。周辺環境や青少年への悪影響を訴えるにとどまらず、PTA関係者が情報公開請求により引き出した申請書類の内容を検証してその瑕疵を次々と洗い出し、設置計画そのものがいかに杜撰な計画であるかを明らかにしていったのである。その中で、申請にあたって必要とされる地元警察との「周辺及び施設内の警備や交通安全対策」に関する事前協議が、まったくの虚偽であったことが明らかになった。アレッグ・サテライトが提出した申請書類にはこの地元警察との事前協議について、「平成12(2000)年9月27日より警視庁生活安全部生活安全総務課と都合3回連絡及び調整している」と記載されていたが、実際に協議が行なわれたかを警視庁(総監宛)に照会したところ、12・13・14(2000・2001・2002)年に来庁している事実はあったものの、いずれも具体的な協議はなく事前協議にはあたらない旨を事業者に申し向けているとのことであった。また14(2002)年5月の来庁時にアレッグ・サテライト代表から「警察は関係ない」との言動があったため、同年6月7日に警察庁を通じて「少なくとも周辺住民の同意や区長、区議会の同意を得てから警察協議を実施し、その後でなければ許可申請をしないよう指導徹底して頂きたい」と経済産業省に申し入れをしており、6月11日に申請が受理された後、直ちに「許可の前提として地元の同意を得ることと、警察協議の実施があることを強く指導されたい」と再度申し入れを行ったことなど、申請内容とは全く異なる実態が明らかになった。
 設置反対連絡協とPTA会長らはこの警察との事前協議に関する虚偽記載のほかにも様々な問題点を洗い出し、9月23日、設置予定地に近接する池袋東口駅前で同連絡協と池袋場外車券売り場に反対するPTA有志の会の主催による「青空審査会」を開催した。この審査会は許可・不許可の判断を先延ばしにしている経済産業省に代わり、経済産業省に提出されている許可申請書を公衆の場で審査しようとするものであった(※41)。
 警察との事前協議のほか、同審査会ではいくつもの問題点が指摘された。まず競輪の場外車券売場として申請された「サテライト池袋」の事業運営母体は当初計画時のまま立川市になっていたが、すでに同市は区の反対表明を受けて池袋への進出を断念、申請が受理された時点で事業から撤退しているにもかかわらず、そのまま立川市を前提として提出されたものであったこと。また、設置予定地は土地全体の13%を他の所有者が所有しているにもかかわらず、その承諾を得ないままアレッグ・サテライトへの土地賃貸承諾書が出されていること。その上、アレッグ・サテライトはこの予定地を本店所在地として商業登記しているが、小学校PTA連合会長が刑事告発したように、その住所に会社の実体はなく、土地の権利関係や登記の合法性についても大きな疑義がもたれることが明らかにされた。
 さらに地元町会の同意について、申請書には地元同意の根拠として、平成12(2000)年10月12日付東池袋一丁目中央町会「役員総会」の決定に基づく同意書と設置計画の推進について役員総会の決定を承認・一任することを賛成多数で可決したとする「13(2001)年度定時総会議事録」が添付されていたが、同町会規約には町会の会議として「役員会」「総会」の二つしかなく、「役員総会」という会議は存在しないこと、また総会議事録についても町会員の多くがその存在すら知らなかったことなど、提出された同意書は町会員の知らないところで作成されたものであることが疑われるものであることが指摘されたのである。
 その他にも経済産業大臣告知で施設内に設置することとされ、また平成 15(2003)年3月20日付の同省製造産業局長名による「場外車券発売施設の設置に関する指導要領」の中でも「大臣告示は、最低基準を示したものであるから必ず当該基準に適合するよう指導すること」とされているにも関わらず、施設内に設置が義務づけられている飲食店や十分な広さの駐車場が計画には盛り込まれていなかった。
 こうして公開・衆人環視のもとで多くの疑問点が次々と明らかにされ、区長はじめ地元選出議員や地元町会長、PTA会長等立会人全員の一致により、「トリックまみれの申請書」に「却下」の判定が下された。この判定結果をもって翌9月24日、設置反対連絡協とPTA会長らは経済産業大臣に設置申請却下進達書を提出するとともに、同省車両課長宛の設置申請却下要請書、日本自転車振興会・日本小型自動車振興会両会長宛の設置申請取下指導要請書をそれぞれ提出した(※42)。
 このように許可申請の様々な瑕疵が明らかになったにもかかわらず、経済産業省による許可・不許可の判断は依然として下されないままだった。このため区長は区議会議長とともに、場外車券売場の施行者として名乗りをあげている7市を訪問し、表明撤回を求める要請行動を開始した。一自治体の長が他の自治体に事業計画の撤回を要請するというのは異例の事態だったが、申請受理から一年半が経過しても未だに経済産業省での審査が継続されたままの状況にあるなか、同じまちづくりを担う自治体の立場から直接訴えようというものであった(※43)。
 7市訪問の初日となった12月17日、訪問先の所沢・熊谷・川越市では区長・区議会議長が揃っての訪問にもかかわらず、市長のスケジュールが調整できないとしていずれも助役の対応となった。そしていずれの市も「市は設置者ではなく利用させていただく立場、周辺環境に関する懸念については設置事業者とよく話し合っていただきたい」「一時は公営競技の収益で市の財政が潤ったこともあったが、現在は赤字で大変厳しい状況。開催権を返上したくても払いきれない費用がかかり、止めるにもやめられない」「今の競輪の経営状態を少しでも良くしたいという共通の枠の中で7市が共同歩調でやっていることであり、一市だけ『イチヌケタ』とは言えない」などを理由に「許可がおりて開設されれば利用したい」と計画を撤回する姿勢は全く見られなかった。続いて19日に訪問した川口市でも同様の対応であったが、区長は市長に会えるまでは何度でも訪問する覚悟だった。そして最終日となった22日、行田市・さいたま市は他市と同様に設置されれば利用したいという姿勢だったが、秩父市のみ市長が対応し、その場で市長自ら「行政が賭け事の片棒をかつぐ時代は終わった。自分のところに作って欲しくない迷惑施設を他人のところに作るべきでない」として、設置計画に反対する立場を表明した(※44)。
 この秩父市長の反対表明を受けて7市の共同歩調にも綻びが見られるようになり、設置反対連絡協は各市議会に公営競技主催計画の撤回を求める請願を提出した。平成16(2004)年3月、7市のうち秩父市議会がこの請願を全会一致で採択し、「池袋東口場外車券売り場での競輪競技主催計画をしない決議」が可決された。また区議会も同年6月、「池袋東口場外車券売り場の設置に断固反対し、直ちに不許可処分を求める決議」を改めて決議した。さらに設置反対区民大会や経済産業大臣への要請行動など区・区議会・区民が一体となった反対運動は止むことなく続けられたが、経済産業省による許可・不許可の判断が下されない状況は16(2004)年以降も続いていった。通常であれば申請から許可まで約1か月であるところを既に2年が経過している「異常事態」に、地域の同意は法的要件ではないと言いつつも、判断を先延ばししている理由として「豊島区の場合は、他に例を見ないような区をあげて反対の動きがある」(経済産業省車両課長、平成16年6月15日付『朝日新聞』)と認めざるを得ない状況だったのである(※45)。
 こうした「棚上げ」状態が続くなか、平成16(2004)年9月、設置予定地に建てられていた場外車券売場の建築看板が撤去された。その理由は翌年に明らかになる。17(2005)3月25日、設置予定地の所有者である籏保全株式会社常務が区長のもとを訪れ、場外車券売場に替わり大型量販店の出店計画を進めている旨が情報提供された。12(2000)年に同地での場外車券売場設置計画が明らかになってから早5年が経過しており、いつまでもその土地を遊ばせておくわけにもいかなくなっていた。また同社は12(2000)年7月にアレッグ・サテライトとの間で、経済産業省から場外車券売場設置許可を得ることを条件にこの土地を賃貸する覚書を交わしていたが、許可が得られる見込みも見通しも立たないことから、16(2004)年7月にはこの覚書が失効した旨をアレッグ・サテライト及び経済産業省に文書で通告していた。前年9月に場外車券売場の建築看板が外されたのはこうした経緯によるものだったのである。
 さらに平成17(2005)年7月21日、籏保全と出店予定者であるヤマダ電機が来庁し、出店計画についての説明を受け、翌22日には区議会議員協議会にその内容が報告された(※46)。この計画は土地所有者である籏保全が地上9階地下2階建ての「(仮称)旗保全池袋ビル」を建築し、そのビルにテナントとしてヤマダ電機が入るというものであった。そしてこの議会報告から日を置かず、計画予定地には場外車券売場に替わり「百貨店、マーケットその他」の大型量販店を用途とする新たな建築看板が設置されたのである。
 以後、籏保全は建築確認申請や地元説明会等、新ビル建築に向けた手続きを進めていった。これにより、同計画地に場外車券売場が設置される可能性はなくなったと思われたが、そうした手続きが進められている最中の17(2005)年11月、「『(仮称)籏保全池袋ビル』建築計画にあたって事業主・施行業者等に住民との誠意をもって話し合いを持つよう求める請願」が提出されたのである。この請願の主旨は籏保全が進めていた新ビルの建築計画についての地元説明が不十分であるとして区議会に指導を求めるものであったが、その請願文の中で「当該地周辺の交通問題には苦慮しているところであり、交通・環境問題については何ら対策案を提示されていない」ことを挙げ、「誠意なき説明もないまま事業者等において計画を進めるのであれば、私たち住民は、断固、ビル建築計画に反対いたします」と結ばれていた。確かに場外車券売場設置計画に対して計画地周辺の交通問題は反対理由の一つであったため、大型量販店の進出でも同様の問題が生じるという主張ではあった。だがこの請願は地元住民から出されたものではなく個人名での提出であり、その提出者が場外車券売場設置推進派で誘致に向けて地元を回っていた人物であることが判明し、場外車券売場を復活させようという意図があるのではないかとの疑いが持たれた。また籏保全が開いた説明会でも建築計画の内容に関する質疑よりも「本当に車券売場は撤退するのか」「建物の一部を車券場に貸すのではないか」などの質問が大半を占め、地元の中にも依然として不信感が強く残っていることが窺えた。こうしたことからこの請願の審査を付託された都市整備委員会では、場外車券売場の撤退が完全に確認できるまでは区議会として審議すべきではないとして、請願内容について実質的に審査することなく継続審査の取扱いとした(※47)。
 この請願が出されたことはもとより、アレッグ・サテライトが籏保全を相手に損害賠償訴訟を起すという話が出回り、さらにこうした事態に至ってもなお経済産業省の許可・不許可の判断が下されないことから、依然として油断できない状況は続いた。このため籏保全はその後も地元への説明会を重ねていくとともに、翌平成18(2006)年3月には新ビル建築予定地に「豊島区民の皆様へ」と題する看板を設置し、場外車券売場建設をめぐり区民をはじめ広く社会に多大な迷惑・心配をかけたことを謝罪するとともに、「今後建物の一部なりとも場外車券場として使用する事はありません」と場外車券売場設置計画の撤回を明示し、同月24日には計画撤回を正式に表明する文書を区長・区議会議長宛に提出した。なおその年の12月には、同社が大規模小売店舗立地法に基づき都に提出した届出書の中でも場外車券売場が計画されていないことが確認された。
 一方、区は当時、池袋副都心の再生に向け、池袋の玄関口にふさわしい良好な景観形成を図るとともに、商業・業務地として安全かつ安心して散策できるにぎわいあふれる都市空間の維持・向上を目標に掲げ、「池袋駅周辺・主要街路沿道エリア地区計画」について検討を進めていた。この地区計画の素案段階では、池袋駅前広場及び主要な街路に面する建物の用途制限として風俗営業法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)の規制適用外となっているテレホンクラブやアダルトショップ等の性風俗特殊営業店舗等の新たな出店を禁止するとしていたが、これに勝馬投票券発売所、場外車券売場及び勝船投票券発売所を加え、公営4競技の場外券売場の出店を禁止した。平成18(2006)年4月12日、同地区計画は都市計画決定された。さらに同年7月10日、「地区計画の区域内における建築物の制限に関する条例」の一部を改正し、この地区計画に基づく建築物の用途制限を条例上に規定した。これにより、池袋エリアで場外券売場問題が再び持ち上がることのないよう歯止めをかけたのである(※48)。
 またこの間、公営競技、特に競輪事業の収益悪化は著しく、池袋への場外車券売場設置計画に反対を表明した秩父市が平成17(2005)年度をもって西武競輪から撤退したのを皮切りに、他の6市も赤字拡大に絶えきれず次々と撤退を表明、西武競輪・大宮競輪ともに19(2007)年度からは埼玉県の単独開催に移行していた。
 こうしてアレッグ・サテライトによる申請取り下げも経済産業省による許可・不許可の決定もなされないまま、場外車券売場設置問題は事実上、収束した。平成19(2007)年3月30日、区は14(2002)年9月以来、5年間にわたり庁舎に掲出していた「池袋場外車券売場設置断固反対」の懸垂幕を降ろした。その撤去式に集まった反対運動に参加した人々を前に、区長は「自治体としての自己決定、自己責任が問われる地方分権の流れの中で、この反対運動は、まさに豊島区としての闘いであった」と振り返り、集まった人々に感謝とねぎらいの意を述べるとともに、「今日まで、区、区議会、区民の皆様と一緒になって培ってまいりました池袋への想いとネットワークは、この街の未来を切り拓く新たな取組みへと繋げてまいる所存」であると誓った(※49)。
 また反対連絡協も平成19(2007)年11月6日、解散式を行ない、14年7月以来続けてきた会の活動に幕を降ろした。12(2000)年7月、場外車券売場設置計画が初めて明らかになった時に真っ先に声をあげた女性たちにより始まった反対運動は、14(2002)年6月に設置計画が経済産業省に申請受理されるという危機に直面し、より多くの区民を巻込んで反対連絡協が結成され、区・区議会・区民が一体となった反対運動へとつながっていった。この7年間にわたる運動の歴史は反対連絡協により記録誌にまとめられているが、その中で常に先頭に立って行動し続けた自主グループ連絡会代表の磻田洋子氏が7年間に及んだ反対運動を振り返って次のように記している。
-私たち豊島区自主グループ連絡会が他の女性団体とご一緒に反対運動をスタートさせて7年半が経過した。その間、今日の在ることを確信して揺らぐとはなかった。「女性団体が女性の視点で、男性だけの運動にしないこと」これは『池袋場外車券売り場を考える』シンポジュームでコーディネーターを担ってくださった佐藤洋子さん(元エポック10所長)の言葉でもあった。(中略)文化の薫り高い追い風を全身に受け、目標を目指してひたすら走り続けることが出来た。行政との両輪に導かれたこの終息に、唯々感謝。お陰様で私の小さな二輪も完走した。
 この最後の「私の小さな二輪」とは、同氏が行動の「足」としていたオートバイのことである。平沼赳夫経済産業大臣への要請行動の際に、土砂降りの雨の中をこのオートバイに乗り、雨の滴が垂れる雨合羽姿で大臣室に駆けつけたことには、大臣も驚いていたという。こうした女性たちの存在なくして場外車券売場設置計画の阻止はなし得なかったことは、当時この問題を担当していた区職員によるレポートでも証言されている(※50)。
 また反対運動に参加した地元町会長のひとりも、設置計画が膠着状態に陥いり、長引く反対運動に「まだ、やっているの」と言われながらも参加し続け、自分の中の運動の灯を消さないようにしたことが不設置という嬉しい結果につながり、「まだ、やっているの」が生かされた教訓であると記録誌の中で振り返っている。この回想にも見られるように、地域の中で日々暮らす区民は年齢・性別はもとより、仕事や家庭での立場や地域との関わり方も含め人それぞれ異なっている。そうした中で7年にもわたる息の長い「市民運動」が続けられたのは、価値観や考え方は違っても「池袋を良いまちにしたい」という共通の思いを抱いていたからであり、また「自分たちのまちは自分たちで守らなければならない」と「断固反対!」の合い言葉でつながったからに他ならない。それは記録誌のタイトル、「思いを束ねて 心は一つ」という言葉に集約されている。
 そしてこの7年間に及んだ反対運動の最大の成果は、ただ「自分たちのまちを守る」ことにとどまらず、運動を継続していく中で「自分たちのまちをどのようなまちにしたいか」という未来に向けたまちづくりへとつながっていったことであろう。
「池袋場外車券売場設置絶対阻止」のバナーフラッグ
「池袋場外車券売場設置断固反対」の懸垂幕
池袋場外車券売場設置反対緊急区民大会
設置不許可を経済産業大臣に直接要請
設置反対連絡協議会「青空審査会」で申請却下
池袋東口場外車券売場設置反対要請のつどい

池袋繁華街の環境浄化活動と生活安全条例

 戦後、池袋駅周辺に自然発生したヤミ市の整理が東口より10年遅れた西口地区は、「無法地帯」と言われたヤミ市のイメージを長く引きずり、昭和37(1962)年にヤミ市が撤去された後も「歓楽街」として雑多な風俗店がはびこり、そうした街に巣食う暴力団の横行が懸念される状況が続いていた。
 昭和41(1966)年に施行された都の「風俗営業等取締法施行条例」は新宿歌舞伎町、台東区千束(旧吉原)とともに西池袋一丁目8~44番を「個室付き浴場」(当時の用語で「トルコ風呂」)の新設許可地域に指定していたが、他の2地区が駅から比較的離れたところに位置する昔からの限られた区画であったのに対し、西池袋1丁目エリアは通勤・通学者や買物客等が避けて通れない駅前の広範囲にわたっていた。また学校・幼稚園等の教育施設の周囲半径200m以内は、新設許可地域であっても新たな営業はできないことになっていたが、池袋北地区の区画整理により55(1980)年にいずみ幼稚園が、また57(1982)年には芝浦工業大学高等学校が移転してその規制が解除されると、新規店舗の進出が急増した。
 こうしたいわゆる「ピンクゾーン」の拡大は街の風紀を著しく乱し、副都心としての街の発展や健全な商店街の形成をめざす地元住民らにとって深刻な問題となっていった。このため昭和56(1981)年8月、西池袋一丁目町会や池袋西口商店街連合会をはじめ、西口地区の15商店会5町会が加入する「池袋西口環境浄化推進会」、池袋西口大将会(池袋西口青年経営研究会)が中心となって発足した「池袋をよくする会」の4者の呼びかけにより、「池袋環境浄化サミット」(池袋西口地区個室付浴場撤廃運動代表者会議)が開催され、許可地域の指定解除を求める運動が開始された。この運動に婦人会や労働団体も加わり大々的な署名運動が展開され、9月には36,358人の署名を添えて都知事への陳情及び都議会への請願、さらに区議会に対しても「池袋西口環境浄化についての請願」が提出された。そしてこれらの請願が採択されたことを受け、11月には住民総決起大会が開催され、都条例改正の早期実現及び即日施行を求める大会宣言を行なった。
 地元運動が高まるなか、この年の12月の都議会定例会で西池袋地区を指定区域から削除する条例改正案が議決され、即日公布・即日施行されることになった。そしてこの反対運動はその後、各地に波及し、規制範囲を大幅に拡大する昭和60(1985)年の風俗営業法改正へとつながっていった。こうして大々的な住民運動の展開により、西口地区の「個室付き浴場」問題はわずか半年足らずの間に大きな成果を上げるに至ったのである(※51)。
 しかし、悪質な客引きや法の網をくぐる新手の風俗営業等はその後も跡を絶たず、西口地区は「怖い・汚い・暗い」という負のイメージを払拭できない状況が何年にもわたって続いた。この事態を何とか改善しようと、バブル経済の崩壊が人々の口に上りだした平成4(1992)年10月、地元町会・商店街・PTA等による「池袋西地区環境浄化推進委員会」が結成された(※52)。同推進委員会は池袋駅北口から西口繁華街を抜けるトキワ通りに前年春頃から出没していた外国人街娼の排除を目的とし、以後、週1回の夜間のパトロール活動に8年余りも取り組み、ついに街娼の姿をほぼ一掃するまでの成果をあげた。また8(1996)年12月には安心して歩ける街、楽しい街にしようと、西口駅前6商店会が「池袋西口駅前環境浄化推進委員会」を結成し、悪質な客引きや違法な露天商行為、放置自転車等の違法駐車を排除するため月2~4回の巡回パトロールを開始した(※53)。これにより西口地区では「池袋西地区環境浄化推進委員会」と「池袋西口駅前環境浄化推進委員会」の二つの環境浄化組織が連携し、それぞれ駅後背の住宅街と駅前繁華街とに役割分担してパトロールが行なわれるようになった。さらに東口地区でも駅前周辺や若者が多く集まるサンシャイン60通りを中心にキャッチセールスやテレホンクラブ等のチラシ配りや貼紙などが目に余る状況となり、10(1998)年2月、東口周辺の商店会や町会のほか、民生児童委員協議会や青少年育成委員会、周辺小中高校PTA等34団体及び地元企業60社で構成される「池袋東地区環境浄化推進委員会」が立ち上げられ、月2回の環境浄化パトロールが開始された(※54)。
池袋西口駅前環境浄化推進委員会
池袋東地区環境浄化推進委員会
 こうして池袋駅の東西で環境浄化組織が結成され、地道なパトロール活動が展開されていったが、しかし地域住民らによる注意喚起的なパトロールには限界があった。また風俗営業法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)や都の迷惑防止条例(公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例)に基づく警察による見回りも、警官の見回り中に違法行為者らはどこかに隠れ、見回りをやり過ごした途端にまたぞろ這い出してくるという「いたちごっこ」の繰り返しで、摘発までにはなかなか至っていなかった。そしてついに平成10(1998)年に暴力団同士の抗争による連続発砲事件が起き、さらに翌11(1999)年9月には池袋二丁目の風俗店で殺人事件が発生するに至り、西口地区の安全に対する危機感は益々強まっていった。
 このため平成11(1999)年10月13日、池袋西口駅前環境浄化推進委員会より「明るい池袋の街づくりを求める陳情」が出され、翌12(2000)年2月18日には池袋西口あけぼの商店会より「悪質客引き等禁止条例制定についての請願」が提出された。これらの陳情・請願は地域の中でも自主的な夜間パトロールや防犯カメラの設置など出来うる限りの努力を重ねているにも関わらず、風俗営業店の乱立や悪質な客引き行為等に歯止めをかける決め手を欠いている現状を憂い、このまま放置すれば街の衰退を招き、地元商店街にとって死活問題であるとの切実な思いから提出されたものであった。そして前者の陳情は警察当局と豊島区他関係機関が一体となり問題解決のための組織を結成することを、また後者の請願は悪質な客引き行為や不健全な客引き看板を規制する新たな条例の制定を求めるものであった。特に後者は請願提出後、2月25日付で訂正願いが出され、件名が「生活安全条例の制定についての請願」に訂正されたが、さらに池袋・目白・巣鴨各警察署の管轄地域ごとに置かれている防犯協会や母の会、池袋母性協会等の各団体からも生活安全条例の制定を求める要望書が区長・区議会議長宛に次々と提出された(※55)。
 この陳情・請願がいずれも区議会の全会一致で採択されたことを受け、区は平成8(1996)年設置の「生活安全連絡会議」の委員に前述した池袋駅東西の環境浄化3団体を加えるとともに、生活安全条例の策定作業に取り掛かった。だがこの「生活安全連絡会議」は区の区民部長を議長とし、区内3警察署の生活安全課長や各防犯協会会長等も委員として名を連ねていたが、年1回の情報交換の場にとどまり、実効性のある対策を検討するまでには至っていなかった。また悪質な客引き行為等については既に風俗営業法や都の迷惑防止条例等により禁止されており、区が同様の取り締まり条例を制定する意味はなかった(※56)。一方、9(1997)年10月、区は「空き缶等の投げ捨て防止に関する条例施行」(ポイ捨て条例)を施行し、空き缶やタバコのポイ捨てをなくすため、ポイ捨て防止看板の設置やさわやかキャンペーン等地域をあげての啓発活動を展開していた。このポイ捨て条例には池袋駅周辺等重点地区内での空き缶やタバコの吸い殻等のポイ捨て行為に罰金2万円を科す罰則規定が設けられていたが実際の適用は行なわれず、ポイ捨て抑止の実効性がなかなかあがっていない現状が見られた(※57)。こうしたことから生活安全条例案の策定にあたっては、国や都の規制法令とは別に、区条例としていかに実効性のある仕組みや規定を盛り込むかが求められた。
 平成12(2000)年9月、区は同月29日開会の区議会第3回定例会に生活安全条例案を上程した。この条例案の特徴は大きく三つある。一つは条例の目的に「生活の安全を守るための区民の自主的活動の推進すること等により、犯罪の防止を図り、もって安全で明るい街づくりに寄与すること」を掲げ、区民・事業者のほかボランティアや民間非営利組織等も含め、自主的な生活安全活動への支援を区の責務に位置づけたことである。二つ目は前述の「生活安全連絡会議」に替わり、区長を会長とし、町会連合会や商店街連合会、区立小中PTA連合会、青少年育成委員会等のより幅広い地域団体代表を委員に加えた「生活安全協議会」の設置を条例に規定したことである。そして三つ目として、区内事業者や土地建物占有・管理者に対して安全な環境確保及び生活安全活動の推進に努めることを義務づけるとともに、共同住宅や不特定多数の者が利用する店舗・ホテル等の建築主が建築確認を申請するにあたって、防犯カメラ等防犯設備の設置についてあらかじめ管轄警察署と協議するよう指導する規定が設けられたことである。特にこの安全設備についての警察との事前協議は、国・都の法令や他自治体がそれまでに制定している同趣旨条例にはない区独自の規定で、犯罪抑止の実効性を高めるために盛り込まれたものであった(※58)。
 平成12(2000)年11日1日、生活安全条例は区議会の全会一致で可決され、即日公布・施行された(※59)。条例施行後、区は生活安全協議会の下に青少年・建築物関係・実践的活動団体の各団体別部会を設置して具体的な対策を協議するとともに、環境浄化活動団体への助成金交付、防犯カメラの設置助成等により地域の防犯活動を支援していった。また12(2000)年度から警察官を派遣職員として区民部に配置し、警察や地域との連携強化を図っていった。
 しかし、悪質な客引き行為は容易にはなくならず、また平成7~11(1995~1999)年の5年間に7,000件台で推移していた区内の年間刑法犯発生件数は、12(2000)年に8,323件、翌13(2001)年には10,760件と1万件を突破、15(2003)年には11,589件の過去最高を記録し、治安状況は年々悪化する一方だった(※60)。こうした傾向は都内全域でも同様に見られ、特に不良外国人等による強盗や空き巣などの多発、少年犯罪の低年齢化・凶悪化など犯罪の質と量の変化による治安の悪化が社会問題化していた。
 このため都は平成15(2003)年を「治安対策元年」に位置づけ、警察官僚であった竹花豊副知事を本部長とする緊急治安対策本部を立ち上げ、都民等による自主的な防犯活動の促進や住宅・道路公園・商業施設・繁華街・学校等における防犯性の向上や安全・安心の確保を図るための方策を盛り込んだ「東京都安全・安心まちづくり条例」を同年10月1日に施行した。また地域との連携による治安対策の取り組みを推進するため、副都心として繁華街を抱える新宿・渋谷・豊島各区長等との「治安対策代表者会議」を開催し、不法滞在の外国人や少年犯罪に一致して取り組むことを確認し合った。
 こうした都の動きに呼応し、平成15(2003)年10月9日、竹花副知事を招いて第12回地域安全豊島区民大会を開催したのに続き、11月18日には治安回復区民総決起大会を開催し、行政・警察・地域のさらなる連携強化をアピールした。また16(2004)年1月から緊急地域雇用創出特別基金を活用して委託警備員を雇用し、それぞれ班に分かれて繁華街と住宅街を巡回する「としま安全・安心パトロール隊」を始動させた。続いて2月には公用車約100台・公用自転車約150台を活用した区職員による安全・安心パトロールを開始した。これは区職員が公務で区内を移動する際に使用する自動車や自転車に「安全・安心パトロール中」と書かれたプレートを取り付け、移動・出張中に犯罪発生等に目配りするとともに、常に地域の中に「人の目」が光っているという監視効果を高めることで、犯罪の抑止につなげることが狙いだった。さらに翌3月、池袋駅東西の繁華街に24時間稼働の防犯カメラ36台が設置された。このうち西口の20台は警視庁により設置された防犯カメラシステムで、池袋警察署内のモニターテレビで24時間監視体制がとられ、何か事件が起きた場合には警察官がすぐに出動する態勢になっているなど、より高い抑止効果が期待された(※61)。
 こうして治安回復に向けた気運が高まるなか、平成16(2004)年4月の組織改正でそれまで区民活動推進課が所管していた地域安全対策事業を総務部に移管し、治安対策担当課長を新設した。その新課長職には警視庁からの派遣職員として課長級の警視を登用し、治安維持に関する経験や専門性を活用し、地域と連携した治安対策の推進を図った。なおこの組織改正では防災課も区民部から総務部に移行し、前年11月に新設した危機管理対策課長と合わせて3課を総務部に再編することにより、犯罪や災害を含めたさまざまな危機事象に対して区民生活の安全を確保するための一元的な体制を整えた(※62)。またこの危機管理担当課長と治安対策担当課長の呼びかけで、16(2004)年7月、区職員ボランティアによる防犯パトロール「夕焼けこやけ隊」が結成された。それまでも池袋東西の環境浄化推進委員会との合同パトロールに区の管理職等が参加してはいたが、この「夕焼けこやけ隊」は勤務終了後に自転車に乗り、地域の人々に防犯の声かけをしながらパトロールする自主活動で、7月14日のパトロール開始初日には委託警備員による「としま安全・安心パトロール隊」と揃って出陣式が行なわれた。さらにこの活動から派生し、公衆電話ボックス内に貼られた風俗店等のビラ撤去やポイ捨てされた空き缶・吸い殻等を拾い集める「夕焼けふくろう隊」、自転車に替わり徒歩でパトロールを行なう「夕焼けアルコーズ」など活動メニューが増やされ、地元の帝京平成大学の学生も参加するなどボランティアの輪を広げていった(※63)。
 官民挙げてのこうした防犯活動の展開により、区内刑法犯発生件数は15(2003)年の11,589件をピークに次第に減少に転じていった。
 だがその一方、風俗店等の悪質な客引き行為は依然として横行し、さらにこの当時、池袋駅東西地区に出現し始めた風俗店の紹介を業とする「風俗無料案内所」が街の風紀を著しく乱すものとして問題になっていた。こうした風俗案内所は直接、風俗営業を行なわないものの、駅周辺にある風俗店の広告を店内に掲載し、案内することで広告料を得るというものだった。平成11(1999)年の風俗営業法改正により、自らの店の前に広告を出すことが禁じられた風俗店に替わり、客集めを請け負っていたのである。その店舗数は17(2005)年11月時点で池袋東口地区に8店舗、西口地区に13店舗、都内全域では114か所に及んでいた。派手な電飾看板を掲げ、外部からも見えるよう扇情的な裸の写真やチラシを店内に貼りめぐらせた「風俗無料案内所」は街の景観を損なうばかりでなく、青少年への悪影響が懸念され、また合法の風俗店のみを案内しているのかどうか疑いが持たれた。こうした状況に池袋東西の環境浄化推進委員会はパトロール中に自粛を呼びかけ、また池袋警察署と区も文書による自粛要請を行ない、最多時に28店舗あった案内所は21店舗までに減少した。だが自粛要請などどこ吹く風といった態度でさらに過激な広告を貼り出す店もあり、また新手の業態であったがゆえに風俗営業法等の規制対象外で自粛要請以上の取り締まりは困難な状況にあった。このため17(2005)年8月22日、池袋駅前の町会や商店街、区及び池袋警察署により「池袋地区風俗無料案内所撤去推進協議会」が発足、連日、警察官同行のもとにプラカードを掲げて案内所周辺をパトロールする活動が開始された。このパトロールも自粛要請の範囲内ではあったが、案内所への入店客の足を遠のかせる効果はあった(※64)。
 こうした動きに呼応し、区は平成18(2006)年2月開会の区議会第1回定例会に生活安全条例の一部を改正する条例案を提出した。この改正条例案は区の責務として「風俗案内所に係る清浄な風俗環境の整備」を加えるとともに、風俗案内所を営むものの責務として「屋外広告物法、建築基準法その他営業に関係する法令等に定める許可を受けるほか、清浄な風俗環境を保持しなければならない」との条文を新たに規定するもので、過度な広告看板等を規制するための根拠条例となるものであった。3月28日、同改正条例案は区議会本会議で全会一致により可決され、翌29日公布・施行された。また都においても風俗案内所を規制する新たな条例制定が同時に進められ、3月31日に「歓楽的雰囲気を過度に助長する風俗案内の防止に関する条例」を制定、同年6月1日から施行された。この都条例は風俗案内所の営業開始にあたって都公安委員会への届出を義務づけるとともに、深夜営業や18歳未満の入店、店の回りや外部から見渡せる状態での過度な広告の掲出等を禁止するもので、違反した場合には中止命令や罰則が適用されることになった。そして区の生活安全条例改正から都条例制定へと風俗案内所規制の動きが加速するなか、18(2006)年6月時点で池袋東西地区の案内所店舗数は17店舗までに減少した。こうした成果を得て、都条例施行の18(2006)年6月1日、池袋西口公園において「風俗案内所に対する条例施行6.1安全・安心住民大会」が開催され、風俗案内所を一掃していくための取り組みをさらに継続していくことが確認された(※65)。
 この風俗案内所の排除活動に続き、平成18(2006)年12月4日、「池袋地区スカウト等排除推進協議会」が発足し、地元住民・区・池袋警察署の連携による風俗スカウト等を排除するためのパトロール活動が開始された。前述したように池袋繁華街での悪質な客引き行為や若者を狙ったキャッチセールスは依然として後を絶たたない状況が続いていたが、これに加えて風俗店等へのスカウト行為が目立って増加していた。またこうした風俗スカウトの横行は都内各繁華街でも同様の状況であったため、都は16(2004)年12月に迷惑防止条例を改正し、ソープランド等の風俗店への従事やアダルトビデオへの出演等を勧誘する行為を禁止した。だが17(2005)年4月の同改正条例施行後も違法なスカウト行為が駅前で堂々と繰り返される状況にあったため、風俗案内所と同様に官民連携の協議会をつくり、本格的な排除活動に乗り出したのである。こうした風俗スカウト等の排除を目的とした推進協議会の発足や活動は、都内でも初の試みとなるものであった(※66)。
 一方、この時の改正都条例では、表向きには性的サービスを提供しないとするキャバクラは規制対象外とされたため、風俗営業に替わりキャバクラのスカウトが急増していった。平成19(2007)年当時、池袋地区内だけでも約300店舗ものキャバクラがひしめき合い、「カラス族」と言われる黒服の男たちが駅前や駅構内にたむろし、若い女性に「キャバ嬢にならない?」と声をかけ、しつこくつきまとうスカウト行為が目に余る状況になっていた。また警視庁にこうしたスカウト行為への苦情が相次いでいたことから、同庁は19(2007)年5~6月、都内15か所の繁華街でスカウトに声をかけられた女性たちに聞き取り調査を実施した。調査に応じた245人のうち約7割がキャバクラの勧誘で、9割がそうした行為を「不愉快」「迷惑」と回答していた(平成19年9月4日配信『産経新聞』)。
 この調査結果を受け、都もキャバクラスカウトを禁止事項に加える迷惑防止条例の改正に動き出した。こうした都の動きに呼応し、池袋西口駅前環境浄化推進委員会は平成19(2007)年9月から月2~4回の環境浄化パトロールにあわせ、池袋駅頭で迷惑防止条例の早期改正に向けた署名活動を展開した。通りがかりの人から署名を集めるのは簡単なことではなく、足早に通り過ぎる人がほとんどだったが、その中でもスカウト排除に賛同して快く署名に応じてくれる人も少なくなかった。12月11日、同推進委員会はこうして集めた約1,200人の署名簿を都に提出した。そして12月19日、池袋での取り組みが追い風となり、キャバクラスカウトを禁止行為に加える迷惑防止条例の改正案が都議会で可決され、翌20(2008)年4月1日から施行された(※67)。
 これにより駅前にたむろしていた「カラス族」の姿は影を潜めたもの、場所を変え、それと分からない服装でスカウトが行なわれるようになり、加えて居酒屋による強引な客引きやホストによる昼日中からの客引きが目立つようになっていった。警察の見回りや環境浄化パトロール隊がやってくると姿を消し、やり過ごした途端に這い出してくる「いたちごっこ」も相変わらずだった。また環境浄化パトロールでの地域住民らによる注意の声がけに、無視する者や「待ち合わせしているだけ」と言い逃れする者、逆に「何の権限があるんだ」と逆ギレされ、身の危険を感じることさえあった。池袋東西の3つの環境浄化推進委員会によるパトロールは10年以上にわたって続けられ、まちの治安向上に大きな役割を果たしていることは明らかだったが、あくまで注意に止まるものであったため、違法な客引き・スカウト行為を見つけてもそれを止めさせるだけの決め手に欠いていた。
 このため平成23(2012)年12月、区は生活安全条例を改正し、翌24年4月1日から施行した(※68)。その主な改正点の第一として、既に風俗営業法や都の迷惑防止条例等で規制対象となっている風俗店やキャバクラ等だけでなく、居酒屋やカラオケ店もその対象とし、また客引きや路上スカウト行為そのものに加え、勧誘目的で客待ちやうろつき、たむろする行為をも禁止したことである。また特に対策が求められる区域を「迷惑行為防止重点地区」として指定することとし、生活安全条例施行規則により池袋駅東口周辺地区・池袋駅西口周辺地区・大塚地区・巣鴨地区の4地区を重点地区に指定した。さらにこれらの重点地区において禁止行為が認められる者に対し、区長は当該行為をやめるよう指導することができるとした上で、あらかじめ指定した者にこの指導を委託することができるとした。そして同条例施行規則により、地域の環境浄化活動に参加する区職員を「環境浄化指導員」に任命するとともに、区が委託雇用している「としま安全・安心パトロール隊」の警備員と重点地区の防犯・環境浄化団体からの推薦者を「環境浄化指定指導員」に指定した。これによりそれまでは注意の声掛けしかできなかった環境浄化パトロールで、指導員に指定された区職員や地域住民がより強い指導を行える法的な後ろ盾が与えられることになった。
 この条例改正は、本節第3項で後述するセーフコミュニティの国際認証取得に向けて検討組織のひとつとして設けられた「繁華街の安全対策委員会」からの提案によるものであった。また平成23(2011)年10月12日には条例改正に向けてアピールする環境浄化パトロールが池袋駅西口周辺地区で実施されたが、同地区は区内他地区に比べ、客引き・スカウト行為の発生件数、検挙率が特に高く、注意の声掛けしかできないことにもどかしさを感じていた池袋西口駅前環境浄化推進委員会メンバーらの切実な声を反映させるものでもあった。24(2012)年4月1日の条例施行を受け、翌2日夜、同地区において指導員証を交付された指導員たちによる初パトロールが実施された。その出陣式にあたり、「区の職員も77名が自主的に環境浄化指導員に名乗りを上げ、本日も約20名の職員が参加している。このような取り組みは継続が必要。今後もみなさんの活動を全面的にバックアップしていく」と区長が誓ったように、以後、地域住民と区職員とによる合同パトロールが継続して実施されることになったのである(※69)。
 そして3年後の平成27(2015)年3月20日、区はさらに客引き対策を強化するため、客引き行為等の防止に関する条例を新たに制定した。この条例は、平成23(2011)年改正の生活安全条例で禁止した客引き・客待ち行為に加え、居酒屋やキャバクラ等の飲食店の経営者に対し、禁止された客引き行為を受けた客を店内に立ち入らせる行為を禁止するものである。禁止された客引き行為をした従業員等だけでなく、その店舗の経営者にも責任を負わせるものであり、指導・警告・勧告等を経てもなお従わなかった場合は、その店舗店名等を公表するとともに、違反行為者本人と店に立ち入らせた者の双方に5万円以下を過料する両罰規定が盛り込まれた。こうした立ち入らせ行為の禁止を規定する条例は全国初であり、これまでの生活安全条例の中から客引き行為等に関する部分を抜き出し、新たな規定を加えて客引き等に特化した区独自の条例として、27(2015)年区議会第1回定例会において全会一致で可決された(※70)。
 この新条例の制定に先立ち、平成26(2014)年12月17日、区と区内3警察署、区内不動産業界団体、池袋東西の環境浄化推進委員会、防犯協会、組織犯罪根絶協会、食品衛生協会の13団体の間で「違法行為店舗の撲滅に関する覚書」が交わされた。同覚書では環境浄化団体等の安全確保の徹底及び防犯情報等の提供・通報のほか、不動産契約時に契約物件で行なう業務に関して犯罪行為が行なった場合、契約解除できる旨を特約条項として契約書に明記するよう努めることが合意された(※71)。
 さらに平成27(2015)年4月1日の条例施行に合せ、不当な客引き行為の排除に専従する「豊島区繁華街警備隊」が結成され、施行日当日、出陣式が行なわれた。この繁華街警備隊には委託警備会社の幹部職員や柔道、剣道の有段者など心身屈強な隊員が選抜され、土日・祝日を除く毎日、客引きが多く出回る時間帯を中心に池袋・巣鴨・大塚の各繁華街で4名体制によるパトロールが開始された。また同年6月1日~12日の強化期間には池袋東西繁華街の警備隊員を6名に増強、最も人出の多い金曜日には倍の8名体制とし、同地区環境浄化推進委員会と区職員による合同パトロールも合せて実施し、「客引き撲滅!」をアピールした。また区は客引きを利用しないことを誓約した店舗を「環境浄化推進店舗」(客引きしない宣言店)として認定する制度を開始、「ぐるなび」、「ホットペッパーグルメ」、「食べログ」のグルメサイト運営事業者3社と提携して各サイトで「環境浄化推進店舗」であることをPRし、各店舗の売上げアップに貢献する仕組みを作った(※72)。
 こうした区の先駆的な取り組みは、都内各繁華街を抱える他区にも波及していった。平成28(2016)年3月25日、豊島区議会議場において豊島・新宿・渋谷・千代田・港・墨田・品川・大田の8区各区長(または区長代理)による「客引き対策会議」が開催され、各区の取り組みについて意見交換するとともに、環境浄化推進店舗の仕組みをネットワーク化して連携を図っていくことが合意された(※73)。
「繁華街警備隊」出陣式
繁華街を抱える8区「客引き対策会議」

暴力団対策

 民事介入暴力をはじめとする暴力団の不当な資金獲得活動や対立抗争事件が全国的に多発し、暴力団を規制するための対策が強く求められた社会情勢を背景に、平成3(1991)年5月15日、暴力団対策法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が制定され、翌4(1992)年3月1日から施行された。同法施行により各都道府県公安委員会が指定する「指定暴力団」に属する「指定暴力団員」による不当な行為が禁止されるとともに、暴力団員による被害の予防と被害者の救済活動を担う機関として「暴力追放運動推進センター」の設置が制度化され、東京都においても4(1992)年5月に「暴力団追放都民センター」が設立された。
 またこの法制定に呼応するように、都内23区で暴力団追放の決議や宣言の動きが広まり、豊島区でも平成3(1991)年10月、池袋防犯協会から「暴力団追放宣言に関する陳情」が区議会に提出された。区議会は同年第4回定例会でこの陳情を全会一致で採択するとともに、「暴力団追放に関する決議」を議決した。これを受けて区は12月19日、「豊島区は、すべての区民と関係機関が一体となって、暴力団を追放し平穏な明るい社会の実現をめざす」ことを謳う「暴力団追放に関する宣言」を行なうとともに、翌4(1992)年6月に第1回「暴力団追放豊島区民大会」を開催した(※74)。
 こうして反社会的集団に位置づけられた暴力団排除の気運が高まる一方、複数の組事務所がある池袋地区内での暴力団による犯罪は後を絶たず、平成5(1993)年の1月~6月の半年間に池袋警察署が扱った暴力団犯罪は102件に達し、前年1年間の94件を超えて倍以上のスピードで増加していた。さらに同年7月には池袋地区内で暴力団同士の抗争による拳銃発砲事件が続発した。また当時、昭和50年代に3,000人~5,000人台だった外国人登録者数は平成5(1993)年1月1日時点で16,300人と3倍以上に急増し、外国人住民との共生をめざして国際化対策が進められる一方、外国人による犯罪も増加の一途をたどっていた。このため警視庁は同年9月1日、本庁内に副総監を本部長とする「池袋地区暴力団等総合対策推進本部」を設置、また池袋・巣鴨両警察署でも各署長を本部長とする推進本部が設置され、警視庁を挙げて池袋地区の治安確保に乗り出した。そして9月1日~11月30日までの3か月間を強化期間とし、本庁から1日約100人の捜査員を動員して池袋地区内の暴力団、不良外国人等による犯罪を集中的に取締る「池袋地区暴力団浄化作戦」が実施された。こうした警察の動きに区も呼応し、9月30日、前年に続いて2回目となる「暴力団追放豊島区民大会」を開催、その中で「暴力団を恐れない、暴力団に金を出さない、暴力団を利用しない」との暴力団追放三ない運動を勇気をもって実行していく大会宣言が行なわれた(※75)。
 こうして地域の中からも暴力団追放の声があがる一方、暴力団対策法で禁じられた民事介入や「みかじめ料」等に替わり、暴力団による資金獲得活動はヤミ金融や企業活動を装った特殊詐欺など多様化・巧妙化していき、また違法または違法まがいの営業を行なう風俗店と暴力団との関係は容易には断ち切れず、池袋繁華街は暴力団の資金源犯罪の温床となっていた。そのようななか、前述したように平成10(1998)年、またしても暴力団同士の抗争による連続発砲事件が発生し、この事件を一つのきっかけとして平成12(2000)年の生活安全条例制定へとつながっていった。以後、区は繁華街池袋を中心に環境浄化の取り組みを進めていったが、その中で暴力団対策は避けて通れない課題となっていった。無法地帯と言われた戦後ヤミ市の残像を引きずり、「暴力団がはびこる怖い街」という負のイメージを払拭しない限り池袋副都心としての発展は望めず、また人が寄りつかない街になることは地元住民や商店街にとっても死活問題だったのである。
 平成15(2003)年12月2日、こうした状況を打開すべく、池袋署管内の事業者団体をはじめ地域住民団体、関係機関等約60団体で構成される「池袋署管内組織犯罪根絶対策協議会」が設立された。豊島公会堂に約600人を集めて開催された設立大会では、暴力団犯罪に加え、増加する不法滞在外国人等による組織的な犯罪も視野に入れ、①暴力団追放三ない運動の実践、②国際犯罪組織の根絶、③暴力団・国際犯罪組織による不当要求の断固拒否、④関係機関との緊密な連携及び会員相互の協力態勢の確立の4つを柱とする「組織犯罪根絶宣言」を行なった。さらに翌16(2004)年4月14日には同対策協議会と区内3警察署及び区の主催により「組織犯罪根絶豊島区民総決起大会」を開催し、この根絶宣言を改めてアピールした(※76)。
 暴力団排除の動きは区内の民間団体や業界団体にも広がっていった。平成12(2000)年5月に設立された東池袋マンション連絡協議会(平成13年4月「豊島マンション連絡協議会」に名称変更)は、マンション内での風俗店営業など環境悪化に危機感を抱いた管理組合や管理会社により立ち上げられものであったが、生活安全条例の制定を求める動きに加わり、同条例施行後も生活安全協議会の一員として池袋地区の環境浄化パトロールにも積極的に参加していた。そして17(2005)年4月、同マンション連絡協議会と区及び池袋警察署により「マンション風俗対策連絡会議」が設置され、同年10月には協議会加盟団体の共通ルールとして、暴力団関係者の居住及び事務所とすることや風俗営業を禁止し、入居者が暴力団の構成員、性風俗営業者と判明したときは退去しなければならない等の規定を盛り込んだ「豊島マンション使用細則」が策定された。風俗店や暴力団を居住マンションから閉め出すこうした独自ルールを定めることは全国的にも先駆的な取り組みで、3年後の生活安全条例改正につながっていくものであった(※77)。
 また平成17(2005)年6月2日、区内ファミリーレストラン等事業者と池袋・巣鴨・目白各警察署により暴力団の排除と根絶を目的とする「豊島区内ファミリーレストラン等暴力団排除連絡協議会」が発足した。同年4月に千葉県市原市のファミリーレストランで暴力団同士の拳銃発砲による死亡事件が発生、また前年9月には区内複数の飲食店で料理にゴキブリが入っていたと因縁をつけ、暴力団員が恐喝する金員目的の不当要求事犯が連続して発生していたことから、警察の呼びかけにより区内ファミリーレストラン等5社32店舗が参集して発足に至ったものである。以後、警察の協力・指導のもと関係機関と緊密に連携し、個々の店単位では対応が困難な暴力団の不当要求に組織的に対応していく取り組みが進められた。そしてこうした民間による暴力団排除の取り組みを後押ししていこうと、16(2004)年4月開催の「組織犯罪根絶豊島区民総決起大会」に続き、19(2007)年12月4日、「区民一丸“一人じゃない、今、必要な勇気”」をスローガンとする「池袋地区不当要求拒否宣言大会」が開催された(※78)。
 一方、平成20(2008)年4月、暴力団の資金獲得活動による被害や銃器使用事件の全国的な多発を背景に暴力団対策法が改正され、暴力団員による威力利用資金獲得行為に対する暴力団代表者等への損害賠償責任の追求や暴力行為により刑に処せられた暴力団員に対する賞揚・慰労等の暴力助長行為の禁止、さらに行政庁に対する許認可や入札参加要求等の禁止等の暴力団に対する規制強化が図られるとともに、暴力排除活動の促進が国・地方公共団体の責務とされた。この法改正を受け、区は同年12月16日、生活安全条例を改正し、暴力団を規制する新たな条項を盛り込んだ。この改正条例では暴力団対策法に定められる「指定暴力団」のほか、「暴力、威力又は詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」としていわゆる準暴力団構成員や暴力団関係企業など、暴力団と一定の関係を保ちながら活動しているグループも含め「暴力団等」と定義し、区や区民の責務として暴力団等の排除活動の促進や支援・協力が定められた。また区内の店舗、事務所及び共同住宅の所有者・管理者の責務として、暴力団等に居住又は使用させないよう努めるとともに、これら不動産の売買や賃貸契約締結後に「暴力団等が居住・使用することが判明したときは、催告を要せずに当該契約を解除することができる」「当該共同住宅等が犯罪に用いられたときは、催告を要せずに当該契約を解除することができる」という2つの解除条項を契約内容に含めるように努めなければならないと規定した。生活安全条例の中に暴力団排除に関する規定を設けるのは都内で初、また区内の店舗・事務所・共同住宅などの所有者等に暴力団の使用制限責務を定めるのは全国初の試みであった。特に住戸の約8割を共同住宅が占める豊島区ではそうした民間住戸が暴力団の事務所や違法行為の「アジト」として使用される危険性が高く、犯罪の温床になることを抑止するとともに、所有者や他の居住者が暴力団からの被害を受けないようにするためのものであり、17(2005)年10月に豊島区マンション連絡協議会がルール化した「マンション使用細則」に法的根拠を与えるものと言えた(※79)。
 この改正生活安全条例は翌21(2009)年1月1日に施行され、区は3月24日、「豊島区が発注する契約からの暴力団排除に関する合意書」を警視庁と締結した。この合意書は、区の「暴力団等排除措置要綱」(平成21年3月6日総務部長決定)に基づき、区が発注する全ての契約案件を対象に、入札参加業者やすでに契約している業者が暴力団または暴力団の威力を利用した不当要求の疑いがある場合に警視庁に意見聴取し、同庁からの意見陳述等に基づき暴力団関係者が入札・契約に関わっているかを判断し、該当する場合には排除する仕組みを築くためのものであり、これもまた都内初の試みだった。さらに区は同年11月2日、区営住宅・区立福祉住宅・区立区民住宅の各条例を改正し、これら住宅の利用申請者等の資格要件として申請者及び同居人が「暴力団対策法に規定する暴力団員でないことを」加えるとともに、暴力団員と判明した場合は利用承認の取り消しや明渡請求を行うことができるとした。また3月に締結した覚書と同様に、利用承認等に関して警視庁への意見聴取・意見陳述の仕組みも盛り込まれた。こうして公契約や区営住宅等からの暴力団排除をいち早く打ち出し、区が率先して取り組んでいく姿勢を示したのである(※80)。
 また、民間による大規模ビル建設等でも暴力団排除の動きが相次いだ。平成21(2009)年9月9日、「(仮称)東池袋一丁目共同ビル建設計画」が進められる中で「東池袋一丁目共同ビル建設事業暴力団排除協議会」が発足した。このビル建設は東口グリーン大通りに面する約2,000㎡の敷地に地上21階地下1階建てのオフィスビルを建設する計画で、22(2010)年4月着工、翌23(2011)年11月完成予定で進められていた(完成後名称:ニッセイ池袋ビル)。その建設事業にあたり本計画に参加する事業者及び施工業者等が、警察や関係機関と緊密な連携をとりながら一致団結して暴力団等からの不当要求や介入を阻止するために協議会を発足させたものであった。また23(2011)年7月には、池袋2丁目で進められていた「(仮称)JV豊島区池袋2丁目タワー計画」でも同様に暴力団排除協議会が発足した。この計画は敷地面積約1,650㎡、地上30階地下1階建て、総戸数219戸のタワーマンションを建築する再開発プロジェクトで、同年5月に着工、25年3月竣工予定で新築工事が進められていた(完成後名称:ルミナリータワー池袋)(※81)。
 このように官民で暴力団排除の取り組みが重ねられる一方、全国的に暴力団員数が減少傾向にある中で都内は逆に増加しており、その中でも豊島区内の暴力団員数は都全体の約1割を占める状況にあった。また暴力団による資金獲得活動が巧妙化し、いわゆる「養子縁組ビジネス」と呼ばれる詐欺事件が全国で多発し始めていた。この「養子縁組ビジネス」は多重債務者等をターゲットに虚偽の養子縁組を繰り返させ、新たに得た氏名で借金を重ねさせたり、新規契約した銀行口座や携帯電話が振り込み詐欺に使われたり、あるいは生活保護受給者や知的障害者等と養子縁組して給付金をだまし取るなど手口は様々だったが、その多くに暴力団等の組織的な関与が疑われた。
 平成22(2010)年に虚偽の養子縁組による詐欺事件が区内で発生し、また23(2011)年3月に東京都暴力団排除条例が制定され同年10月1日から施行されるなど暴力団排除に特化した個別条例制定の動きが広がりつつあったことから、区は平成23(2011)年12月13日、都条例を補完しつつ区の地域特性を踏まえた独自の規定を盛り込んだ「暴力団排除条例」を制定した。既に区は平成20(2008)年12月改正の生活安全条例に暴力団排除活動の促進に関する区・区民の責務や共同住宅等における暴力団排除規定を設けていたが、これらの規定を抜き出し、行政対象暴力に対する対応方針の策定や区の事務事業に係る暴力団排除措置等の都条例を補完する規定と合わせて新条例に再編するとともに、都条例から一歩踏み込んだ区独自の規定として、共同住宅等の契約解除条項に暴力団員の不法行為により損害を受けた場合に上部団体組織に使用者責任(損害賠償)を求めることを可能とする規定や区が設置する公の施設から暴力団を排除する規定、さらに全国初となる虚偽の養子縁組における措置規定を盛り込んだ(※82)。
 養子縁組制度は本人(養子と養親)の同意を前提に、本人双方と証人2名の署名を付した届出書を居住する市区町村の戸籍窓口に提出するだけで手続きが完了し、同様に養子離縁も届出だけで容易に行なえる仕組みになっている。しかし親子としては不自然な年齢差であったり、多数の人物との養子縁組や離縁が繰り返されていたり、さらに同一人物が複数の証人になっていたりなど社会通念上、不自然な届出が出されても要件が整っていれば自治体は受理せざるを得ず、また各自治体には戸籍に関する調査権は認められていなかった。こうした点に暴力団が目を付け、新たな資金源として悪用していくことが懸念されたのである。このため区条例では不正な公正証書・公文書の取得等の違法行為を目的とする虚偽の養子縁組を禁止し、養子縁組に暴力団関係者の関与を知った者の警察等への通報義務を定めるとともに、違法性が疑われる届出が出された場合、東京法務局への照会及び暴力団関係者の関与の有無について警察への確認を行ない、暴力団関係者の関与が判明しかつ届出人等の住所地が区内であった場合には、住民基本台帳法に基づく居住実態調査を行うこととした。この調査により居住実態が認められないときは職権により住民票を削除するとともに、警察に通報して事件捜査につなげていくという流れを想定したものであり、虚偽の養子縁組による犯罪を未然に防ぎ、また暴力団等の資金源を断つことが狙いであった。
 平成24(2012)年4月1日の同条例施行を控えた3月27日、区と池袋・巣鴨・目白の区内3警察署との間で「暴力団関係者による虚偽の養子縁組の防止に関する合意書」が締結された。その合意内容は、虚偽の養子縁組の疑いがある場合の警察への意見聴取と警察からの意見陳述のほか、区職員が住民基本台帳法に基づく居住実態調査を行なう際の警護等の協力要請、実態調査結果で犯罪の疑いがある場合の警察への通報など、条例の実効性を担保するために区と警察と相互に緊密な連携を図っていくというものであった。また翌々日の29日には条例の普及啓発を図るため、帝京平成大学冲永記念ホールに約1,000人の区民を集め、区と区内3警察署及び各防犯協会の主催による「地域安全運動豊島区民大会」が開催された。さらに条例施行半年後の9月18日、豊島公会堂に再び約1,000名の区民が結集し、池袋地区組織犯罪根絶対策協議会、区、区内3警察署の主催による「安全・安心街づくり豊島区民決起大会」が開催された。その開会にあたりあいさつに立った区長は「豊島区独自の条例を施行し、虚偽の養子縁組の届け出が一件もないのは、素晴らしい成果だと思う。これからもより安全・安心な街を、皆さんと一体となってつくりあげていきたい」と述べ、条例による成果を確認し合うとともに、暴力団根絶に向けたさらなる取り組みを呼びかけた(※83)。
 以上、平成10~20年代に展開された池袋繁華街の環境浄化活動に始まる治安対策の取り組みの経緯をたどってきたが、区がこれらの取り組みに本格的に乗り出す起点となったのは、平成12(2000)年11月に制定された生活安全条例だったと言えるだろう(※84)。改めてその後の経緯を振り返って見ると、14(2002)年6月に公営競技の場外券売場の設置に関する規制、18(2006)年3月に風俗案内所に関する規制、20(2008)年12月に暴力団排除活動の促進及び共同住宅等における暴力団の排除、23(2011)年12月には悪質な客引き・路上スカウト行為への規制及び地域の防犯・環境浄化団体等への指導権限の付与など、その時々の課題に対応する形で4回の改正が重ねられ、さらに23(2011)年12月の暴力団排除条例、27(2015)年3月の客引き行為等の防止に関する条例の制定へとつながっていった。そしてこうした取り組みを重ねてきた結果、15(2003)年に11,589件に達していた区内刑法犯発生件数は年々減少し続け、28年には5,000件を割り込んでピーク時の2分の1以下に減少させるまでに至ったのである(図表3-⑨参照)。
暴力団追放豊島区民決起大会
区内3警察署と「暴力団関係者による虚偽の養子縁組の防止に関する合意書」調印
図表3-9 種類別刑法犯発生件数の推移

危険ドラッグ対策とその後の環境浄化対策

 こうして区内刑法犯発生件数が減少するにつれて街なかの体感治安も向上していき、民間調査で都内住みたい街ランキングで池袋が3位に入るなど、安全・安心まちづくりは着実に歩を進めていた。また若い女性向けのファッションビルやサブカルチャー系のコンテンツショップ等が池袋に相次いでオープンし、文化によるまちづくりとの相乗効果によりまちに賑わいが生まれ、「怖い・汚い・暗い」という負のイメージは薄れ、文化と安全・安心というふたつの政策を軸に区民との協働により進めてきたまちづくりが、ようやく実を結ぼうとしていたかに思われた。
 しかし、その矢先の平成26(2014)年6月24日、午後8時前とあって多くの人々が行き交う池袋西口繁華街で暴走車が歩道に突っ込み、歩行者を次々とはね、女性1人が死亡、7人が重軽傷を負うという惨事が発生した。危険ドラッグを吸引し、意識が朦朧とした状態で車を発進させたことが事故の原因で、また吸引した危険ドラッグは当時「脱法ハーブ」と呼ばれた法の規制がかかっていない薬物で、現場近くの店で購入されたものだった。この死傷事故の第一報を受けた区長は、「それが事実であるならば、絶対に許しがたい」と強い憤りのコメントを発表した。安全な繁華街をめざして区民とともに地道な努力を積み重ね、ようやくその手応えが感じられるようになってきたところだっただけに無念さは隠しきれなかった(※85)。
 それだけに区の対応は素早かった。事故発生翌日の6月25日、緊急危機管理会議を開き、危険ドラッグを「絶対に許さない」という姿勢を示すため、危険ドラッグ撲滅に向けた都市宣言及び区独自の条例を制定することを決定した。続く26日には池袋東西の環境浄化推進委員会や地元西口商店街等の各関係団体代表と協議し、早急にアピール・行動を起していくことで合意、決起集会の開催に向けて実行委員会が組織された(※86)。
 そして暴走事故の衝撃が覚めやらぬ7月4日、区は区議会第2回定例会最終日に都市宣言案を提出、その日のうちに全会一致で区議会の議決を得て、「違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅都市宣言」を行なった(※87)。
 違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅都市宣言
私たちは、このまちで共に暮らし・働き・学ぶ人、このまちを訪れる人、すべての人が  安全・安心で豊かな生活を送れることを願っています。
安全・安心で豊かな生活は、一人ひとりの責任ある行動と、それを望む人々の協働によって守られるものであることを、私たちは知っています。
健康な心と体をむしばみ、私たちが望む真に豊かな生活とは相容れない違法ドラッグ・ 脱法ドラッグを、私たちは決して認めません。
そして、まちの安全・安心を脅かす、違法ドラッグ・脱法ドラッグを、私たちは決して許しません。
このまちから全ての違法ドラッグ・脱法ドラッグを撲滅するために、私たちは共に声をあげ、共に行動することをここに宣言します。
 平成26年7月4日  豊島区
 この都市宣言から一夜明けた7月5日、事故現場から至近の池袋駅西口駅前広場で「違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅!豊島区民の集い」が開催された。事故発生から10日足らずの短期間に区内236団体・114町会・70商店街に参加を呼びかけ、当日は朝からの雨にもかかわらず、1,000人を超える区民が駅前広場に結集した。その中には区内大学に通う大学生たちの姿も見られ、また事故の大きさから新聞・テレビ等、多くの報道陣も詰めかけていた。
 集会には田村憲久厚生労働大臣、中野良一警視庁組織犯罪対策本部長、地元選出の小池百合子衆議院議員が列席し、古屋圭司国家公安委員長、舛添要一東京都知事からもメッセージが寄せられた。主催者を代表してあいさつに立った区長は「違法ドラッグ・脱法ドラッグを撲滅するためには、法の力だけでは足りない。脱法行為を見過ごさない、放置しない、許さないという地域の意思を結集していくことが何よりも撲滅に追いやる大きな力になる。今こそ、WHOセーフコミュニティ国際認証都市としての力量が試される時。この試練を乗り越え、子どもたちの未来のために、違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅の第一歩を、勇気を持って踏み出そう」と呼び掛けた。また列席した田村厚生労働大臣からも「現在指定されていな薬物にも投網をかけていく」と脱法行為を決して許さない強い決意が表明された。そして前日制定されたばかりの「違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅都市宣言」が区議会議長により読み上げられ、続いて池袋西口駅前環境浄化推進委員会委員長から「違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅の声をこの池袋から発信し、日本から、そして世界から有害な薬物を一掃していこう」との「池袋アピール」が発せられ、西口広場を埋め尽くした人々の「脱法ドラッグ反対!」のシュプレヒコールが響き渡った。集会後には事故現場で犠牲者への献花が捧げられ、田村厚生労働大臣を先頭に「違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅!みんなの力で安全・安心な街へ!」と書かれた横断幕を掲げて池袋西口繁華街をパレードし、道行く人々に違法ドラッグ・脱法ドラッグの危険性を訴えた(※88)。
 事故の重大さに、国や都も迅速に動いた。7月3日、厚生労働省は興奮作用や健康被害を引き起こす恐れがある脱法ドラッグの取り締まり強化を各都道府県に要請、警察と厚生局等関係機関の密な連携により違法薬物を「ハーブ」「お香」などと称して販売する業者への立ち入り調査を求めた。この要請に続き、警察庁も全国の警察に取り締まりの徹底を指示、7月10日に警視庁に総合対策推進本部が設置され、都内販売店への一斉立ち入り調査が開始された。また7月8日には安倍晋三首相自ら対策強化を指示、これを受けて7月15日、厚生労働省は池袋の暴走事故で使用された「脱法ハーブ」から検出された通称名AB-CHMINACA と5-Fluoro-AMB の2物質を薬事法に定める「指定薬物」として新たに指定する省令を公布した(7月25日施行)。この「指定薬物」の指定は、通常であればあらかじめ薬事・食品衛生審議会の意見を聴く手続きが取られるところ、緊急を要する場合の特例として認められる指定であった。さらに7月22日、警察庁及び厚生労働省は脱法ハーブを含む「脱法ドラッグ」について、法規制の有無を問わず「危険ドラッグ」という呼称に統一していくことを発表した。新呼称名を一般から公募、7月5日~18日までの間に寄せられた2万件近い呼称案の中から、使用による危険性をより明確に示すものとして選ばれたものであった。
 麻薬や覚せい剤と似た幻覚作用を持ちながらも麻薬取締法や覚せい剤取締法の対象外であり、また「脱法ドラッグ」を「合法ドラッグ」と称して売る店もあったことから、興味本位で安易に手を出すケースが見られ、「脱法ドラッグ」に関連する摘発者数は年々増加傾向にあった。平成25(2013)年の全国摘発者数は前年比64人増の176人にのぼり、そのうち交通事故等での摘発者40人は前年の2倍以上になっていた。池袋での暴走事故以降も、北区(7月5日)、板橋区(7月8日)、新宿区(7月11日、同15日)など脱法ハーブの吸引による交通事故が都内で相次いだ。こうした事態に7月16日、特別区区長会は2020年東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて世界一安全な首都東京の実現は急務であり、また地域の安全・安心を守ることは基礎的自治体である特別区の使命であるとして、23区が一体となり違法ドラッグ・脱法ドラッグの撲滅に取り組むことを宣言する決議を行った。これに続き7月18日には特別区議会議長会も脱法ドラッグ撲滅に関する決議を採択した。
 こうして池袋の暴走事故をきっかけに危険ドラッグに対する社会の関心が高まり、撲滅に向けた取り組みが大きなうねりとなるなか、区は次なる目標として区内の危険ドラッグ販売店の一掃をめざした。
 8月5日、区長、区議会議長と地域団体代表らが厚生労働省を訪れ、田村厚生労働大臣に危険ドラッグ販売店舗に対するさらなる指導・取締の強化と、「販売店ゼロ」実現の取組みへの支援を要請した。同大臣は「まずは店頭販売を撲滅していく。販売すること自体が社会悪というのは明白であり、社会的な認知を広げていきたい」と述べた。続く8月22日には舛添都知事のもとを訪れて同様に要請した(※89)。
 これら要請行動に続き、区は危険ドラックを撲滅するための独自条例づくりに取り掛かった。9月22日、「(仮称)危険ドラッグ排除条例(案)」を公表し、区民等から広く意見を求めるパブリックコメントを開始した。この条例案では既存の販売店の排除はもとより新規店舗の参入を抑制するため、建物の提供者が努めるべき責務が規定されていた。区内にある建物を他人に提供する場合、提供者はその契約にあたり、相手方に危険薬物の販売等の用に供しないことを約させるとともに、違反した場合は契約を解除する旨を定めること、また違反がないか定期的な確認に努めるものとしたのである。また建物の区分所有者に対しても、管理規約等の作成にあたり、建物内で危険薬物に起因する事件事故が発生しない環境の醸成を図ることのほか、危険薬物の販売等の自粛、危険薬物の販売等の用に供された場合の退去の措置に留意するよう努めるものとした。だがパブリックコメントに寄せられた意見の中には、こうした建物提供者、区分所有者の責務について負担の大きさや実効性を指摘する意見が多くあった(※90)。
 このため区は条例の実効性を担保する方策のひとつとして、10月20日、池袋・目白・巣鴨 3 警察署、東京都宅地建物取引業協会豊島区支部、全日本不動産協会東京都本部豊島文京支部との間で、危険ドラッグに関する情報の提供や通報等を通じて相互に連携し、危険ドラッグによる健康被害や吸引等に起因する事件事故の防止を図る「危険ドラッグ対策に関する覚書」を締結した。また同協会支部2団体は自主的な取り組みとして、建物の賃貸契約時に借主に対し、「幻覚作用等をきたす薬物等を販売するものでないこと等に関する表明・確約書」を徴収するとともに、危険ドラッグの販売等が判明した場合に、勧告を要せず契約を解除することができる「契約解除条項(特約)」を盛り込むよう協会会員に通達した。この確約書及び契約解除条項のひな型には危険ドラッグの販売だけでなく、譲渡、製造、栽培、吸引、展示、広告等の目的で所持した場合も含まれ、区の条例よりもさらに一歩踏み込んだ内容となっていた。借主から事前に確約書を徴収するのは全国初の取り組みであり、また区内に本店を置く不動産業者の約 95%がこの2団体に加盟していることから、条例の実効性が担保されることが期待された(※91)。
 区はパブリックコメントの結果を踏まえ、また警察署及び区内不動産業界団体との覚書の締結を経て、平成26(2014)年区議会第4回定例会に条例案を提出した。同条例案は12月5日の区議会本会議において全会一致で可決され、12月8日、「危険ドラッグその他の危険薬物撲滅条例」を公布、翌27(2015)年3月1日から施行されるにいたった(※92)。
 一方、国においても12月17日に改正薬事法(医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律の一部を改正する法律)が施行され、検査命令及び販売等停止命令の対象物品として従来の「指定薬物である疑いがある物品」に「指定薬物と同等以上に精神毒性を有する蓋然性が高い物である疑いがある物品」が加えられ、未指定の危険ドラッグについても法の網にかかることになった。またそれまで個々の店舗にしか出せなかった販売等停止命令を、同一と認められる危険ドラッグについては全国一律に販売・広告が禁止されることになった。これは国等の規制強化により表向きには店での直接の売買を行わず、電話やインターネット等による販売手法に潜行していく実態が見られたため、そうした販売行為についても取り締まりの対象にしたものである。
 危険ドラッグ販売店に対する包囲網が次々と狭められていくなか、平成26(2014)年6月の暴走事故発生時には区内に10店舗あった販売店は、同年10月時点で営業が確認できる店舗としては2店舗までに減少した。さらにそのうち1店舗の店長が11月18日に薬事法の容疑で逮捕され、実質的に廃業状態になったことから、残りは1店舗のみとなった。その最後の1店舗も翌27(2015)年1月26日に廃業に追い込まれ、区内販売店舗はついにゼロとなった。これを受けて2月2日に開催された「危険ドラッグ・暴力団追放豊島区民決起大会」において、区長は「今、この時間、区内には公然と店を構える危険ドラッグの販売店はない。これは、まさに歴史的な瞬間と言えるのではないか」と述べ、危険ドラッグ販売店『ゼロ』を高らかに宣言した(※93)。
 こうして危険ドラッグ問題は区と区民、警察等関係機関が連携し、矢継ぎ早に対策を打ち出していったことが国や都を動かすきっかけとなり、事故発生から半年余りという短期間で収束を見るに至ったのである。こうした区の危機対応は本項の最初に取り上げたオウム真理教問題をはじめ、その後の様々な危機事象に際し、常に共通して取られてきたものであった。事件・事故等に限らず、危機に直面した時にはまずは区、区長としての断固たる意思を表明する。そしてあらゆる手段を講じ、できうる限りの対策を迅速に打ち出し、区民とともに行動を起こしていく。さらに国や都への働きかけはもとより、メディアを通じて区の姿勢をアピールし、世論に訴えかけていく。「ピンチをチャンスに」という言葉はいつしか高野区長の口癖のようになっていったが、危機にあたってのこうした区の姿勢が区民の信頼につながり、安全・安心まちづくりの土壌を形づくっていったことは間違いない。その中でもこの危険ドラッグ問題は、短期間に大きな成果をあげたものと言えよう。そしてその後も、「オールとしま」による安心・安全まちづくりは続いていった。
 平成29(2017)年10月1日、区は繁華街等の路上に無秩序に置かれた違法看板等を規制する「路上障害物による通行の障害の防止に関する条例」を施行した。立て看板やのぼり旗、商品陳列台を店外の公道に設置することは違法行為にあたり、街の美観を損なうだけでなく、高齢者や視覚障害者等の交通弱者の安全な通行を妨げる危険な障害物となっていた。それまでも道路法等関係法令に基づき是正指導を行ってきたが、なかなか改善されない状況にあったため、違法看板対策に特化した独自条例を制定し、規制の強化を図ったのである。パトロール等で店舗従業員等が口頭指導を受けた場合、代表者への報告を義務付けるとともに同意書を徴収し、それでも改善されない場合は文書による除却勧告を行い、なお違法行為を繰り返す著しく悪質な事業者については店舗名等を公表することとした(※94)。
 この条例施行後、区は従前から取り組んでいた「客引き対策」、「路上喫煙・ポイ捨て対策」にこの「違法看板対策」を加え、3つの課題に総合的・横断的に取り組んでいくため、同年11月、「安全で安心な美しいまちづくり対策本部」を設置し、池袋東西の駅前地区をモデル地区に位置づけ、区、区内 3 警察署及び各地区環境浄化推進委員会によるパトロール及び同条例に基づく是正指導を実施していった。その結果、半年後の平成30(2018)年3月には東口モデル地区で違法看板数を89基から10基に、西口モデル地区では69基から6基へとそれぞれ約90%を減少させる成果をあげた。こうした成果を得て30(2018)年4月、「安全で安心な美しいまちづくり対策本部」を「としまセーフシティ作戦対策本部」に改称し、対象地域をモデル地区周辺や池袋以外の繁華街にも拡大していった。さらに区内全町会への防犯カメラの設置、外国人来街者に路上喫煙・ポイ捨て防止を呼びかけるための多言語音声翻訳機を導入するなど、環境浄化と環境美化を組み合わせた「としまセーフシティ作戦」を展開していった(※95)。
 また道路擁壁や区施設の壁面、商店街のシャッターなど、まちの各所で繰り返される落書きも環境浄化・環境美化の長年の課題になっていた。落書きはまちの美観を損ねるだけでなく、治安の悪化にもつながりかねないため、地元立教大学生や美術専門学校生によるアートペインティング、繁華街での落書き消去キャンペーン、区民ボランティア「落書き消去隊」による消去活動など、様々な落書き防止対策が講じられてきた(※96)。
 だが犯罪行為という意識が低いせいか安易な落書き行為は後を絶たず、令和元(2019)年12月27日夜間、池袋西口公園の野外劇場「グローバルリング」の柱や床面9か所にスプレー塗料による落書きがなされたことが翌朝の警備見回り時に発見された。この「グローバルリング」は区が掲げる「国際アート・カルチャー都市構想」のシンボルとして、また池袋西口地区の新たな文化にぎわい拠点として前月の11月16日にリニューアルオープンしたばかりだったのである。それだけに落書き事件発生の報に衝撃が走り、区はすぐさま池袋警察署の立会いのもとで被害状況を確認、年始明けの令和2(2020)年1月6日、同署に被害届を提出した。また同日、危機管理対策本部を立ち上げ、「落書きは犯罪行為です」と記した警告看板を公園内に設置するほか、巡回警備の強化、青色パトロールカーによる重点パトロール等の緊急対策を講じ、10日には池袋警察署に本件に厳しく対応するよう「要望書」を提出した。そして2月14日、前々日の12日に犯人を逮捕したとの連絡を池袋警察署から受けた区は、「この落書きは池袋のイメージを損なうだけでなく、これからのさわやかな魅力あるまちに対する重大な挑戦であり、本区の進める国際アート・カルチャー都市へのテロ行為と言っても過言ではなく、断固たる決意をもって立ち向かっていく」との区長コメントを発表した。さらにその日のうちに記者会見を開き、「落書きを許さない」ということを区内外に示していくため、落書き防止に特化した条例の制定を発表した(※97)。
 区は早速、条例案の作成に着手し4月21日には素案を公表してパブリックコメントを開始、寄せられた意見を踏まえ6月19日開会の令和2年区議会第2回定例会に条例案を提出、7月15日の区議会本会議で可決され、翌16日に「落書き行為の防止に関する条例」を公布、即日施行した。こうした落書き防止に特化した条例の制定は23区でも初となるものであったが、同条例では落書き行為の防止に関する区の施策への協力や落書き防止に努めることを区民や事業者、建物所有者の責務として定めるとともに、第7条に「何人も、落書き行為を行ってはならない」と落書き行為の禁止を明確に規定し、同条に違反した者には10万円以下の罰金を科す罰則規定が盛り込まれた(※98)。

 以上、本項ではオウム真理教問題に始まる平成10年代以降の治安対策の様々な取り組みをたどってきた。しかし、本項冒頭でも述べたように都内有数の繁華街池袋を抱える豊島区は事件・事故のリスクを常に抱えており、安全・安心まちづくりにゴールはない。
 戦後のヤミ市が人々の胃袋と生きるためのエネルギーを満たす一方で暴力や犯罪の温床となったように、様々な人々で賑わう繁華街はその光の影に常に闇が潜んでいる。その闇に対抗していくために、池袋駅周辺の環境浄化パトロールは日々続けられており、この先も続けられていくことだろう。そうした不断の取り組みこそが安全・安心まちづくりの土台となることは言うまでもない。
 そして繁華街の治安対策も含め、安全・安心のまちづくりを持続可能な仕組みにしていったのが本節第3項で述べる「セーフコミュニティ」の国際認証取得であったのである。
「違法ドラッグ・脱法ドラッグ撲滅!」豊島区民の集い
「危険ドラッグ・暴力団追放豊島区民決起大会」で「危険ドラッグ」ゼロ宣言