今川義元  1519~1560

 

(いまがわよしもと)

【古代・中世】

駿河・遠江・三河の3か国および尾張の一部を領国とした戦国大名。今川氏親の三男。治部大輔。兄2人の死去後におこった家督をめぐる今川家中の争い(花蔵の乱)を経て家督を継承した。三河進出は、天文15(1546)年太原崇孚率いる軍勢による戸田氏の居城今橋城(豊橋市)攻撃に始まる。翌年、今川氏は戸田氏を降伏させて今橋を奪い、ここを三河統治の拠点とし、今橋を改め吉田とした。三河進出にあたっては、すでに矢作川以西に影響力を強めていた織田信秀から事前に、三河分割支配に関する共通理解を得ていた。しかし、天文16年7月上旬に今川が山中(岡崎市羽栗町)に砦を築いた頃より両者疑心暗鬼となり、決裂した。織田による岡崎城攻撃(同年9月)、小豆坂における両者の戦い(同17年3月)を経て、同18年に織田勢力を一掃し、三河を領国とした。この間、市域においては上野城(上郷町)の酒井忠尚が織田方であったほかは、今川配下に属した。同19年12月以来、衣城(金谷町)の中条氏は反今川の動きをみせ、同23年までに今川氏の討伐によって衣の領地を失った。旧中条氏の支配地は今川直轄領とされた。上野の酒井忠尚、寺部の鈴木氏、広瀬の三宅氏、大給の松平親乗、足助の鈴木氏らの国衆は、今川氏に軍役奉公することを前提に従来からの領地支配を認められ、それぞれの支配領域は、今川氏の側から「上野領」などと呼ばれ、「領」として把握された。同21年以来弘治年間(1555~58)まで三河で反今川反乱が相次いだ。この間に大給松平家当主親乗は駿府に抑留されており、大給領での反乱に関連しての処置とみられる。八草中条氏、酒井忠尚、三宅氏、寺部鈴木氏、足助鈴木氏も反乱したが、市域においては永禄元(1558)年までにほぼ鎮まった。同3年に桶狭間において義元が戦死したのち、岡崎城にとどまった徳川家康が今川氏から独立して市域にも支配を及ぼすと、これへの抵抗から、特に山間部においては国衆が今川氏配下にとどまる傾向がみられた。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻511ページ

→ 小豆坂の戦い鈴木氏中条氏三宅氏