国木田独歩は、明治4 (1871) 年に千葉県の銚子で生まれました。父専八が裁判所に勤務していたこともあり、幼少期の頃は山口、広島、岩国など、さまざまな地を転々としました。
独歩が柳井地域に初めて居住したのは、明治24 (1891) 年、19歳の時です。東京専門学校(現早稲田大学)を中退した独歩は、麻郷村、麻里布村(いずれも現田布施町)に居住していました。
独歩は、明治25 (1892) 年に柳井に移り、その後、明治27 (1894) 年9月3日に上京するまでの間の数か月間、柳井で過ごしました。
上京した独歩は、明治27 (1894) 年に国民新聞社に入社。日清戦争の時に新聞記者として軍艦千代田に乗り込みました。
その後、独歩は「国民之友」や「家庭雑誌」の編集をしながら執筆活動を続け、明治30 (1897) 年に処女小説「源叔父」を発表。明治34 (1901) 年、「武蔵野」で世に認められました。独歩の作品は、優れた性格描写と民衆の視点に立った社会批判を盛り込んだ作風が特徴で、「自然主義の先駆者」と称されています。
独歩が柳井で過ごした期間はわずか数か月間ではありましたが、多感な時期を過ごしたこともあり、柳井を舞台とした作品を数多く残しています。
―柳井を舞台とした作品―
『置土産』
『少年の悲哀』
『帰去来』
『欺かざるの記』
独歩が、田布施町麻里布の浅海家に仮寓していた明治24年、近所の二少女に「よく勉強するように」と書き与えたものといわれている。
柳井市町並み資料館(柳井市柳井津)
22歳の頃の写真をもとに山本辰昭が制作したものである。銘板の「山林に自由存す」は、独歩の直筆を複製し刻んだもの。
柳井市町並み資料館(柳井市柳井津)
上杉玉舟(本名:上杉久吉)の提唱により、光台寺境内の楼門脇に昭和26年建立。当時の町長、窪田秀夫氏が揮毫。
光台寺(柳井市姫田)
昭和43年、藤坂屋によって建立。揮毫は独歩の友人、永田新之丞氏。独歩は明治27年に約1か月間、藤坂屋の借家で過ごした。
藤坂(柳井市柳井)