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解題・説明
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寛政~文政年間頃の松山城下町を描いた絵図を後世に模写したもの。城郭を南から鳥瞰するように描いているが、本丸部分の天守や櫓などの描写は粗い。二の丸、三の丸、西の丸、北の郭については文字で示している。北西部には三津浜街道の出口である三津口に、番所と同心の屋敷がセットで描かれている。以前の絵図には見えた南部の家老下屋敷や花畑がなくなり、町屋が増えるなど南部発展の兆しが見える。本絵図の景観年代は、筆写者が元禄年間とする注記を入れていることから、その前後に想定されてきたが、町奉行所の位置に着目すると、その想定よりはるかに下ることがわかる。本絵図では東町奉行所が現在の大街道と二番町が交わる西角にあるのに対して、西町奉行は旧来からの若草町の敷地にそのまま立地している。新興の「外側分」を東町奉行、「古町」を西町奉行が管轄する新しい町奉行支配の在り方は寛政10(1798)年に始まるが、短命に終わって、文政8(1825)年には東町奉行は再び若草町のもとの場所に戻っている。こうした町奉行所の情報からすると、本絵図は近世後期の城下を示したものと考える方が妥当であろう。
(伊予史談会:井上淳)
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