えにわ五代の写真帳

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明珍鉄工所(みょうちんてっこうしょ)の100年

明珍鉄工所の100年
前列左から2人目が二代目又市。その後ろに立っているのが三代目八治。
左端の学生服姿が四代目武康/昭和17年ころ

このまちに生きた人々がいた
親から子へ
またその子供たちへ
うけつぎ
切りひらいていった思いがあった
まちの歴史とは
そこに生きる人々の歴史
ひとりひとりのなかにものがたりはある

 

よろいかぶとを捨てて
 明珍(みょうちん)家の先祖をたどると、よろいやかぶとを作る江戸時代の「甲胃師」増田明珍勝信にたどりつきます。勝信は、仙台伊達藩の重臣である片倉家の家来となり、九代にわたって片倉家に仕えました。「明珍」という珍しい名は、日本の甲冑づくりの一番大きな流派・明珍派からきています。この「明珍」の号は、平安時代の末に近衛天皇より下されたといわれ、増田明珍勝信は、全国にひろがる明珍派のひとりだったわけです。

 明治維新によって、片倉家は城と領地を奪われ、北海道開拓に生きる道を求めようとします。一八六九年(明治二)、現在の登別市のあたりに支配地が認められた片倉家主従は、手をたずさえて北海道をめざしました。
 増田明珍清太夫(せいだゆう)とその子傓助(せんすけ)たちが北海道へ渡るのは、このとき一八七〇年(明治三)のことで、現在の登別市富岸に入っています。清太夫五十二歳、傓助二十七歳のときでした。清太夫は、片倉家が置いた開拓役所の「開墾係」になっており、開拓のリーダーのひとりだったようです。まさしく彼らは、よろいかぶとを捨てて、鍬を手に大地にむかったのでした。
 しかし片倉家の支配は、一八七一年(明治四)八月、廃藩置県とともに終わります。その後の片倉主従の北海道開拓は、資金もなく、たいへん苦しいものでした。傓助は札幌へ移り一八七八年(明治十一)には開拓使工業局の職工として働いていることがわかっています。長男の又市が生まれたのが一八七六年(明治九)。姓を明珍と名のるようになったのは、この傓助の代からでした。
恵庭百年とともに
 いまからちょうど百年前の一八九七年(明治三〇)、明珍又市は恵庭にやってきました。恵庭にまだ百四十軒くらいしか家がなかったころ。漁村・島松村とよばれていた恵庭に、今の市役所にあたる「戸長役場」ができた年でもありました。

 又市がどうして恵庭にやってきたかはよくわかっていません。しかし、開拓が進む農村では、農具を作ったり修理したりする鍛冶の技術はなくてはならないものでした。又市は恵庭で鉄工所を聞き、傓助もすぐにやってきました。恵庭に開業した鍛冶屋・明珍家として傓助は初代、又市は二代目にあたるわけです。
 初代の傓助は、昔ながらの武士の気風を残す人で、子どものしつけにきびしかったといいます。また二代目又市は、お酒好きのたいへん陽気な人で、鉄工所にはいつも村の人たちが集まっては、話に花をさかせていたそうです。
初代 傓助(65歳のころ)



 傓助と又市は、恵庭で鍬や西洋式のプラウなどの農具をつくることに汗を流しました。恵庭の土は火山灰が多く、農具はヤスリをかけたように、すぐすりへってしまいます。そこで刃先に鋼をつけて丈夫にした農具をつくり、村人に喜ばれました。又市が工夫したホー(草をけずる鍬で、西洋式のよび名)は、「明珍ホー」として今でも知られています。
恵庭の土に合わせて改良された「明珍ホー」



 三代目の八治は、一八九九年(明治三二)恵庭で生まれました。八治は、一九二四年(大正一三)に、東京の麻布獣医学校で蹄鉄(馬の蹄につける鉄)技術を学び、又市のあとをつぎます。また戦後すぐ第一回目のアセチレンガス溶接免許も取っていますので、新しい技術に敏感な人だったようです。
 
三代目 八治(68歳のころ)
麻布獣医学校時代の三代目八治
(写真前から3列目左から4人目)/大正13年



アセチレン溶接技術資格試験で試験係員をつとめる八治
(写真中央で背広姿で座っている人物)/昭和23年

 江戸時代の伝統の技に始まり、明治の洋式の技術を取り入れ、恵庭の大地によってはぐくまれた鍛冶の技。それは今、一九三三年(昭和八)生まれの四代目武康さん、そして一九六一年(昭和三六)生まれの五代目親範さんにうけつがれていきます。
代々仕事は親子力を合わせて行ってきた。左が四代目武康。右が五代目親範

五代目の初代ヘ
 かつては農作業が始まる春は、鍛冶屋にとってもいそがしい季節の始まりでした。夜明けとともに響く鉄を打つ音に、よく「明珍さんの春が始まった」といわれたそうです。

右が初代傓助が使った金敷。左が二代目又市の金敷。金敷は鍛冶屋には欠かせない作業台

 その鍛冶の技術は、大量生産できない手仕事でした。しかしその手仕事は、たとえば農家一軒一件の土の質を考え、それにあった農具を作るという「技」でもありました。そのような技がなければ、「技術大国」といわれる今の日本はなかったのです。
 しかし昭和三十年代を境に耕耘機が広まり、それまでの農機具はどんどん使われなくなっていきました。四代目武康さんも農機具だけではなく、さまざまな仕事をするようになります。「鉄でできるものなら、なんでもやりました」と武康さんはいいます。それはそれまでつちかった技術をもとにして、新しい時代に、新しい道を切りひらくことでもありました。
プラウやハローがまだ使われていた昭和32年の農機具価格表

四代目武康は、かつて使われていた農機具のミニチュアを作り、鉄工所のショウケースに保存している。
それは小さな博物館のようだ(上・島田鍬、下・プラウ)

 今、武康さんの仕事のそばには、常に五代目親範さんの姿があります。「息子には五代目の初代になってほしいと思っています」と武康さん。それはすべての新しい世代へのメッセージなのかもしれません。
作業場にまつられた鍛冶の神のシンボル。
「水」の字になっている
初代傓助のときから同じ場所にある明珍鉄工所。
五代目の初代へ、親子の新しい挑戦が始まる

 まちに生きる全ての私たちのなかに、同じような歴史があります。おじいさん、おばあさんたちの知恵や、ひいおじいさん、ひいおばあさんたちの汗があります。そのおかげで私たちは今ここに生きているのです。
 あなたも探してみませんか-あなたのなかの百年を。