旧亀田市は、横津岳および袴腰岳を背にして函館山と函館港を望み、南東部で函館市と相接し、西は上磯町に、北西は蒜沢(にんにくざわ)川を境として七飯町に、北は鹿部村、南茅部町と接していた。東西11.5キロメートル、南北14.7キロメートルで、面積は92.07平方キロメートルの広さであった。
歴史に出てくる亀田の地名、所在地は今日の旧亀田市の範囲とは一致しないが、17世紀ころからすでに開拓農民が今日の旧亀田市内の地域において村落を形成していたことが知られている。第2次大戦までは純農村として発達したが、昭和35年ころから函館市のベッドタウンとして宅地化が進行し、人口も急激に増加し始め、昭和40年には約29,000人、昭和45年には5万人を突破し、昭和46年11月に市施を施行した。昭和48年には懸案の函館との合併が実施され、宅地化の進行に伴って近郊農村としての機能は次第に薄れ、農家戸数は徐々に減少し、昭和40年の918戸から709戸となった。産業別人口では昭和35年55%を占めていた農業就業者は昭和45年には8%に低下し、代って第3次産業が約63%、第2次産業が29%を占めるようになり、産業別人口構成でも都市型に変わった。人口の増加に伴って小売店・卸売店の進出も目立ち、工場の一部も用地を亀田に移すものが増(ふ)え、工場数は昭和40年の50から47年には109と2倍以上の増加率を示した。旧函館市内ではすでに宅地として伸びる余地がほとんどなく、今後ともこの地区の宅地化は進行してゆくものと思われる。なお、昭和48年12月1日に函館と合併し、単一自治体としての亀田市の行政区域はすべて函館市に編入された。