福士成豊
函館では前にも述べたように、慶応4(1868)年以来明治4年までブラキストンが気象観測を行っていたが、同年ケプロンが北海道開拓使顧問団長として来日すると、ただちに気象観測の重要性を説いたり、ブラキストンの観測成果を利用して、北海道の気候を論じたりしていたので、恐らく彼は函館で以前から続けられていた気象観測を開拓使に引継いで永続させようと考えていたらしい。
そこで彼はブラキストンを通じ、開拓使函館支庁開拓使九等出仕の福土成豊にすすめて、気象観測所の設置を開拓使に建議させる一方、測量の技術者である福士にブラキストンの測器を貸し与え、官舎(函館区船場町9番地)にすえつけて気象観測を開始させたようである。その時の測器は空盒(ごう)晴雨計、コロメテル乾湿計、フレミング型雨量計などで、観測のためには充分とはいえなかったようである。
明治5(1872)年の初期の福士の観測はこのことをいうのであろうとされている。
このあと、ブラキストンが福士を通じて進言した観測所設置のことについては、間もなく開拓使函館支庁の認めるところとなり、その結果、気象測器が英国に注文され、注文の測器が到着したのを機会に、開拓使函館支庁は気候測量所を設置して、明治5年7月23日(旧暦)から正式に国家の機関として気象観測を開始した。
当時は、観測のことを測量と呼んだ例が『北海道志』に見られるので、気候測量所は気象観測所のことである。
観測の担当は福土成豊のほか1名か2名程度であったらしく、観測測器は準規水銀晴雨計(フォルタン型)、準規水銀寒暖計、験湿器、最高寒暖計、最低寒暖計、雨量計(口径8英インチ)等であって、全部英国カセラ製であり、キュー気象台の検定証付きのものであったといわれている。
これらの事情は、明治16年の『函館測候所報文』および明治30年の『北海道気象報文函館の部』に書かれているものであるが、創設当時の気象測器のことについては、その後更に詳しく文献をあたったところ、英国に発注した準規水銀晴雨計、準規水銀寒暖計をはじめ各計器の検定証が、明治7年から明治13年にかけての日付になっていることなどがわかったので、これらの測器を実際に使用したのはこれより以後と思われ、明治30年の『北海道気象報文』に述べられている「英国に発註した測器の到着を機に気候測量所を創設した……」というのは、何かの間違いであろうとされている。
ともあれ、この函館気候測量所こそは、明治政府の手になる日本最初の気象観測所で、後の函館測候所、函館海洋気象台の基礎となったものなのである。
『函館一等測候所沿革史』によると、「明治五年七月二十三日、はじめて地方時午前九時、午後二時、午後九時の三回観測を施行す。且つ同時に、時辰儀検測を命ぜらる。当時、本所は民事局地理係に属し、気候測量所と称す。」と記録されている。
東京ではこれに遅れること3年、明治8年6月1日東京赤坂の内務省地理寮構内において観測が始められた。昭和16年この日を記念して、現在の気象記念日が制定されたのである。