江戸時代の用語

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 明治23年の「博物場陳列品其他越品調書」「函館博物場列品目録歴史之部」によると、″太古の部″に次の品目が挙げられている。矢根石、心臓形・漁叉形、天狗(てんぐ)のメシカヒ、雷斧、雷鎚(つい)、古瓶(こへい)、古土器ノ欠(破片のこと)などの品名と員数、産地、年月、献送人名が記されている。この調書は北海道函館区役所函館仮博物場で作られたもので、先史時代の石器や土器を当時どのように呼んでいたか知ることができる。矢板石、天狗のメシカヒ、雷斧石、雷鎚という名称は江戸時代から明治にかけて普通一般に用いられていた呼称である。天狗のメシカヒとか雷斧の名は、木内石亭の『雲根志』に出ている。前編5巻が安永2(1773)年に刊行され、後編4巻は6年後の安永8年に、また続いて3編6巻が享和元(1801)年に出版されているが、3編巻之5には松前と蝦夷の境の熊石というところから掘出した″異志都々伊(いしつつい)″と″青龍刀石″のことが書かれている。異志都々伊は両端に頭飾りのある石棒のことであるが、石亭はこれをはるか上代の神宝で、『日本紀・神武紀』に見える異志都々伊の類と考えていたようである。青龍刀石とは青龍刀石器のことで、これも石亭が名付けたものであり、両端に頭飾りのある石棒と共に神代石と言っている。『雲根志』(今井功訳注解説・昭44)にある江差の村上八十兵衛の話によれば、安永6年から8年に熊石に落雷があり、その跡に物(異志都々伊)1つが残されたが、うわさが3、5里四方に及んで騒動したため、雷堂という小祠を建てて、その物を納めたという。『雲根志』後編巻之4には天狗飯匕(てんぐのめしかひ)の説明があり、「鏃石の類にて、そのかたち大同小異、(中略)濃州(注・美濃国)にて天狗飯匕という。出羽および越後、飛騨よりも出づ。ここにてもやはり天狗飯匕という。また佐渡、能登にもあり。ここにては狐の飯匕というと。」とあり、また同じく後編巻之3を見ると「奥州南部、出羽の羽黒山、越後馬正面村、東美濃客見野、飛騨国高原等に雷斧多し。そのほか国々まれにありと見ゆ。細小なるは三五分巨大なるは尺余、かけ肌あり、みがき肌あり、諸方石を愛せる家ごとに雷斧、雷刀、雷鎚、雷碪(ちん)、雷環(中略)、雷剣等あり、根元一物なり。おのおの形容によって名を呼ぶなるべし。予数百種を蓄う。色形大小産所等しからず。按ずるに雷に寄ること非なり。意(おも)うに上古の兵具ならんか。口伝あり。」とある。