石器が天から降って来たと信じられていたことは、『続日本後紀』巻8にも見える。これによれば、承和12(845)年出羽国から言上があって、8月3日から降り出した雨がやまず、雷電声を闘わせること10余日で晴天を見ることができ、海岸に向うと自然の隕(いん)石が少なからずあり、あるものは鏃(やじり)に似ており、あるものは鋒(ほこ)に似ている。色は白、黒、青、赤などさまざまで、鋭い先が皆西に向き、茎は東を向いている。土地の古老は今までに見たことがないというので、国司が推量するに、この砂浜には小石すら存在しないはずであるのにということなので、言上の者が進上した兵家の石を数十枚外記局に収めた。勅を下して陸奥、出羽、太宰府などに変事があれば適宜善処して不慮のわざわいを防ぎ、禍を転じて福となすため、これより先に仏神に法を修めて幣帛(はく)を奉らしめたという。雷の恐ろしさとその直後における石器の発見が勅令を下すほど重大な事がらであったことがうかがわれる。朝廷に言上し、国忌や布施を法式どおりに執り行い、警固を厳重にしたことはその後の記録にもたびたび出てくる。このように、石器がその当時神秘的に考えられたためか、石鏃の向きによって吉、凶兆が占われたりもした。石器をあがめるようになったことは、木内石亭の雷堂もそうであるが、天明9(1789)年の寿鶴斉著『東国旅行談』にも八幡宮の矢の根について「是を神の御矢と敬い、諸人はなはだ崇敬し奉る」と書かれている。また下北半島の佐井村に箭(や)之根八幡宮という神社があるが、この社の高台一帯は縄文時代中期の遺跡になっていて、同社には御神石として黒く光った磨製石斧が大切にまつられていたということである。
石器天降説はこのように、神々の時代のものという太古的な理解からで、神代の石器と呼んだ風が生れたが、上古の兵具とか、上代の人のものと断定したのは木内石亭ならびに奇石会の人々であった。新井白石や近藤重蔵(正斉)は石鏃を粛慎(みしはせ)がもたらしたものであろうと考え、神代の石から人が造ったものとの観点に立った。白石の『本朝軍器考』は、石鏃を人工のものと論じている。また松岡玄達-寛文8(1668)年から延享2(1745)年-は、幕府の命により本草調査のため諸国を巡回した人であるが、彼は「石鏃は、是蝦夷の人此鏃にて雁を射る」と、蝦夷が石鏃を使用していることを指摘し、これには木内石亭も『鏃石考』の中でその説に同意している。