日本における石器時代文化の上限は、前期旧石器時代にさかのぼる。この時代の人類は、ヨーロッパのネアンデルタールや、ピテカントロプスなどの古人類と対比される。この時代の石器が出土しているのは、山形県上屋地、栃木県星野、大久保、山口県磯上、大分県早水台、宮崎県出羽洞穴な
どである。注目を集めたのは栃木県栃木市の星野遺跡の調査で、この遺跡は旧石器時代の文化層が幾層にもなっていて、下部の第11文化層から前期旧石器が現われ、日本旧石器群の編年を、より確実なものとした。調査を指導した東北大学芹沢長介の第3次調査報告書『星野遺跡』によると、上層の第1文化層が旧石器時代の終りに出る有舌尖頭(ゆうぜつせんとう)器を主とする石器群包含層で、旧石器時代の終りから中石器時代の1万2000年から1万3000年前の年代であり、第2文化層は3万1000年以上前、立川ローム層が堆積する以前の年代と考えられている。第3文化層から第11文化層までは珪(けい)岩製石器群の出土層で、これらの石器は形態や製作技術から、中国の周口店第15地点文化もしくは第1地点文化に対比されるという。この周口店第1地点の猿人洞からは、東アジア最古の人類である北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)の約40体分にのぼる骨と、約10万点の石器や骨角砕片が発見され、焼痕(こん)のある骨や石から火を使用していたこともわかった。星野遺跡の前期旧石器は3万年よりも古く、13万年より新しいとされているが、関東地方の古東京湾周辺に古人類が住んでいたのは、地質学的に、富士火山が活動する前の、箱根山火山の活動時期である下末吉ロームの時期といわれているから、氷河時代の第3氷期(リス氷期)の非常に古い時期に当る。この遺跡の第5文化層面に動物の脚跡が5つ現われている。直線的に並んで、かつ楕円形のくぼみが3個か4個ひとかたまりになり、いかにも巨大な脚跡に見える。大きさは約40センチメートルで、約1メートルの歩幅で並んでいる。この脚跡のなぞについてはマダガスカル島やニュージーランドに、かつて生息していた身長2メートルから3メートルもある怪鳥モアかアイピョルニスのものでないかといわれ、亀井節夫はこの時代にはナウマン象、マン
モス象、ノウサギ、ムカシニホンジカ、ニホンジカ、ヤベオオツノジカ、イノシシ、ブリスクス野牛、ヘミオヌス馬、ツキノワグマ、ヒグマ、トラ、オオカミなどの動物が日本列島に生息していたと言っている。またこの遺跡の第6文化層面では
住居址が発見されており、2メートルほどの皿状ピットには舟形の掘りくぼみが作られていて、炉もしくは休息所と見られる住居の中心は、6本の柱に囲まれ、住居周辺に防御棚があるため、芹沢は棚を巡らした開地住居と言っている。星野遺跡の報告書には旧石器時代の住居についても述べられ、ネアンデルタール人が主人公になった南ロシアにあるモロドヴァ遺跡の中期旧石器時代の
住居址に近似することを挙げている。楕円状にマン
モス象の骨や歯が並ぶモロドヴァの
住居址内部には10か所以上の炉跡があり、これは天幕生活の痕跡であるとしているが、昭和47年に国立博物館と朝日新聞社主催の「日本列島展」に特別出品されたウクライナ・メジリチの旧石器時代住居のように、数本の木の枝と95頭ものマン
モス象の牙や頭骨や大腿骨で作られた家が建てられていたかもしれない。
『マンモス象狩』木村提捷司作(市立函館博物館蔵)
北海道の先土器文化や日本の先土器文化が、ネアンデルタール人によってもたらされたという想定に立つと、リス・ウルム間氷期にこの化石人骨がヨーロッパ、西南アジア、アフリカ全域から出土し、それらに類似の体質骨が中国各地でも発見されているので、大陸から移動してきたことになる。現代人に比較して眉上弓が隆大し、前かがみの低い姿勢で歩く彼らは、温暖な気候であった時代の前半には段丘上の開地に占居していたが、寒冷になる後半の時代には岩陰や洞窟住居に住むようになる。衣服は毛皮で帯や腰巻を作り、狩猟法も進んだため、マン
モス、ウシ、カモシカ、洞(あな)グマなどを捕獲して生活していた。このネアンデルタール人が消滅すると、現代人とほとんど同じ体格のホモ・サピエンス(新人)が西ヨーロッパに登場し、西アジア、アフリカ、中国、北ユーラシア、更に新大陸へと移動する。この何回かの新大陸への民族移動は、東アジアからベーリソグ陸橋を通って行ったと考えられており、初めの移動は第4氷期(ウルム氷期)の海面低下期で、陸橋が形成されていた3、4万年前といわれる。
記録のない世界の"もの"のうつりかわり