凶賊の流刑

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 文治5(1189)年源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討伐すると、その勢力は津軽に及び、北海道をますます近いものにした。鎌倉幕府はこれを夷島(えぞがしま)と呼んで、建保4(1216)年には、京都東寺の凶賊以下強盗海賊の類50余人を、奥州に遣わして蝦夷地に放ち、文暦2(1235)年にも、夜討強盗の張本人を断罪し、枝葉の者は関東に集め、蝦夷島に放流することを六波羅に達している(『吾妻鏡』)ということも見られ、和人の来住は歴史的にも明確にされている。