安東氏の勃興

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 古代国家の形成という歴史的な背景のなかで、北海道に和人の政治的な触手が伸ばされてくるのは、実に12世紀末からである。
 すなわち、文治5(1189)年平泉の藤原氏が滅亡すると、奥州一円は全国を掌握した鎌倉幕府の治下に属し、鎌倉御家人(ごけにん)の手によって分轄統治されるようになった。しかし津軽および南部の北端は、漁猟を主とする蝦夷によって占拠されていたため、同じ統治形式をとることができず、安倍貞任の後裔「東夷の酋長」をもって自任する安東氏によって統治されていた。
 この安東氏の出自については、必ずしもつまびらかにしないが、『安東家系図』その他によれば、安倍貞任の滅亡後、その子高星(たかあき)が3歳にして乳母に抱かれて津軽にのがれ、成長するに及んで津軽の藤崎に城を築き、ここを根拠とした。
 そして、その子孫安東堯秀(安東五郎)の代に至り、藤崎は、北条氏の嫡流の直轄する得宗領の一つになったものと思われ、時の執権北条義時から蝦夷の代官に任ぜられ、奥羽ならびに渡島蝦夷を管轄し、その守護にあたるとともに、貢税の徴収と反乱にそなえた。以後北条執権家のいわゆる御内人(みうちぴと、近臣)として、一族のうちから幾人かを鎌倉におくり、北条氏の側近として活躍した。愛秀(よしひで)の代になって、十三湊に移り、盛季に至る4代の間、ここを本拠地とした。

安東氏系図