9月29日ついにカムチャツカへ拉致された嘉兵衛は、翌文化10年春まで、ここに冬営したリコルドと同じ家、同じ部屋に起居を共にした。その間、嘉兵衛はロシアの少年オーリカについてロシア語を習い、リコルドとの意思の疎通につとめた。そしてゴロウニンが捕えられた原因は、前年フォストフの理不尽な暴挙にあることを責め、リコルドはそれに対し、それはロシア政府のあずかり知らぬものであると説明した。こうして結局、シベリア総督からフォストフの暴挙の弁明書、ならびにゴロウニン放還願書を日本政府に差し出すこととし、日本への再度の航海準備にかかった。
折しも文化9年には、ロシア本国ではナポレオン1世の遠征を受けて大変な騒ぎとなり、嘉兵衛の身辺でも同行の2名の水夫が相次いで病没、嘉兵衛自身も健康を害し、前途まことに暗たんたるものがあった。