松前藩の領地はこれによって著しく縮小された。士民の驚きも大きく、なかには脱藩してひそかに回復をはかろうとした者や、村名主外数名が江戸に上り、老中に駕籠(かご)訴して捕えられ、藩に引渡された者もあった。
しかし同年12月4日、崇広は蝦夷地歳入の代償として、幕府から陸奥国伊達郡梁川、出羽国村山郡東根の地、あわせて3万石を支給され、別に出羽国村山郡尾花沢1万石分を預地とし、加えて年々金1万8000両を給されることになり、従来1万石の格式であったものが3万石の格式となったので、前直轄時の懲罰的な移封に比べれば非常な優遇であった。そして藩主は、いぜん福山に藩臣とともにとどまり、梁川、東根、尾花沢にそれぞれ代官を派遣して治めさせた。