警備地の領地化

583 ~ 584 / 706ページ
 仙台藩がこの警衛を命じられると、同年7月上書して、蝦夷地の警衛は遠隔の地である上に地域が広く、永久守備の基礎をたてるのは容易でないから、警衛地をことごとく領地とし、政務をはじめすべての委任を受けることができれば、漸次に屯田の制をもって山野を開き、蝦夷を撫恤教化し、永久の方策を立てることができるであろう、ということを陳情した。けれども当時幕府は蝦夷地の措置を改正しようとしていた際なので、これは許可するところとはならなかった。
 しかるに、安政6年9月27日、幕府は仙台(松平陸奥守)南部(南部美濃守)秋田(佐竹右京大夫)会津(松平肥後守)庄内(酒井左衛門尉)津軽(津軽土佐守)の6藩に達し、「蝦夷地の開発守衛は当時専要の事に付」、蝦夷地を分割し領分として給与するから諸事熟議して、守衛、開墾等特別行届くよう取計うべし、と命じるに至った。