ペリー来航の時は、松前藩の詳細な触書によって、みな恐怖して店を閉じ、婦女や子供を隠した市民も、このたびはたちまち慣れ親しんで恐れなくなり、往来で遊ぶ子供たちさえ聞き覚えの外国語で相手をするようになり、官民ともにつとめて平穏を旨としたばかりか、進んでその文化の吸収につとめた。たとえばロシア領事ゴスケウィッチが写真機を持参して撮影を行い、医師ゼレンスキーもその術をよくしたところから、当時箱館で洋服の裁縫を業としていた木津孝吉が、これらの人々についてその技術を習い、またゼレンスキーの病院で治療を受けて知り合った田本研造は、やがてその手伝いをしながら撮影法を知り、孝吉と研造は相ともに研究した結果その術を会得し、慶応2(1866)年ころには、人の依頼に応じて撮影するようになった。これが箱館における写真師の始まりである。