駒ケ岳の噴火は第2章第2節に記述したように、寛永17(1640)年大噴火があり、その後天明4年正月に小噴火があったきり、しばらくなかったが、安政3年8月26日大噴火が起きた。この時の状況は、同月24日駒ヶ岳の付近で時々鳴動を聞いたが、26日巳の下刻(午前11時)大震動を起こして中峰が噴火し、折から強烈な北風で鹿部、本別辺に焼砂がおびただしく降下し、焼失家屋17棟、焼死2人を出し、また南麓の留の場が土石のため埋没して、湯守および湯治客22人のうち19人が死亡するという大惨事を見るに至った。この時箱館からは上空の噴煙が南方になびき、あたかも多数の綿を散らしたように見えたという。また灰は遠く東方に及び、同日十勝の大津あたりは、午後2、3時から煙塵が空を覆い、降灰は一寸も積ったと伝えられている。その後噴火の勢いが次第に衰えたが、9月1日北東風で降灰は上湯の川、亀尾辺にもあり、同月中駒ヶ岳付近は震動し、箱館でも時々地震が感じられたという。