こうして安政元年2月晦日、日米両国間で翌年3月より箱館を開港する件が合意された。ペリーが松前開港を要求して以来10数日後のことであった。ペリーが日本北方の松前に1港の開港を強く要求したのは、北太平洋上で操業するアメリカの捕鯨船の寄港地を必要としていたからである。このことは、すでに大統領親書の内容からも窺い知れるが、ペリー自身松前開港を要求した件について、「わが捕鯨船がその近辺を非常にしばしば訪れるサンガル(津軽)海峡を抜けて通過する船舶にとって位置の上で便利の良いところである」(( )内引用者、『遠征日記』)と記していることは、そのことを雄弁に物語っている。それだけに、2月25日、応接掛より箱館を開港する旨伝えられた際、一応は条件付きで受入れてはいるものの、この条件はあくまでも対日交渉での一つのゼスチャーに過ぎず、内心は、我が意を得たりとうけとめていたことは、「箱館はサンガル(津軽)海峡の東の入口、北緯約四二度のところに位置しており、しかもこの地域を巡洋するアメリカの捕鯨船舶の停帆地として、どの点から見ても便利な地理的位置を占めている。その多くは、毎年この海峡を通って、鯨を追跡して日本海へ抜けているのである」(( )内引用者、同前)と記していることや、先の井戸の書状からも知ることができる。なお、ペリーが箱館来航以前のこの段階で箱館の有利性を判断できたのも、シーボルトの『日本』やゴロウニンの『日本幽囚記』(Memoirs of a Captivity in Japan. 1824年・ロンドン)などによって、すでに箱館に関する情報を得ていたからであった(同前)。
またペリーは、2月晦日の日米会談の際、「南方港之儀は、下田ニ而宜敷候間、下田ニ御定被レ下度候」(「墨夷応接録」『幕外』付録1)といっているが、これはおそらく先の下田港調査の結果、下田が「カリフォルニアとシナとの間を往復している蒸気鑑船やその他の船舶にとって、また日本海域のこの地方を巡航している捕鯨船舶にとっての停留地としてこの港が占める位置は、これ以上を望めないほど良好」(『遠征日記』)であると判断したが、その後、後者の機能を果しうる港として新たに箱館の開港を認めさせることができたこと、つまりペリーからすれば、不充分とはいえ、下田・箱館2港の開港を日本に認めさせたことは、太平洋横断航路を実現するための石炭・薪水・食料等の補給基地と捕鯨船用の寄港地を日本で手に入れるという初期の目的をともかくも達成しえたことを意味していたからであろう。
それだけにペリーにとって、下田開港の時期をより早めるとともに、下田・箱館2港の開港に伴なう諸問題をよりアメリカに有利な内容としたうえで、これらの内容をもりこんだ条約を早期に締結することが大きな課題となった。そのため、条約内容の日米交渉は、2月晦日(30日)以降ペリーの積極的な行動を背景に急ピッチで進められたが、3月2日になって、ペリーは突然下田開港については条約文に調印日より即時開港する旨記すよう応接掛に強く求め、応接掛はこうしたペリーの態度に強く抗議したものの、翌3月3日「来年ニ相成候得は、拙者最早参レ不レ申、別人参可レ申候、左候得は、下田にて薪水等被レ下候方手順之処は、唯今拙者罷越、各様方と下田ニ而万端御相談之上、後々之所迄取極候様仕度存候、左も無レ之候得は、来年に相成り別人にてハ、万一彼是と行違ひ候儀有レ之候ては、御双方共に不レ宜候」(前掲「墨夷応接録」)とのペリーの主張におしきられ、やむなくこれを認めるに至った。こうした経緯の中で同日調印されたのが日米和親条約であり、その中に安政2年3月より箱館を開港する旨記されたのであった。それだけに、同条約は、多くの問題点を内包するものとなったが、これについては後述することとしたい。なおペリーは、この条約調印日の3月3日、応接掛に箱館へ向う旨告げていた(同前)。