安政元(1854)年3月3日に調印された日米和親条約(神奈川条約)は、同年5月22日下田で調印された同条約附録(13か条。下田条約・追加条約ともいう)によって一部追加・修正されたが、この条約附録のうち、箱館とかかわる重要なことは、箱館では石炭を用意しなくともよいことになったこと(6条)、箱館における遊歩区域が5里四方とされたこと(11条)、の2点であった(『幕外』6-225)。遊歩区域が下田が7里四方であるのに対し箱館が5里四方となったのは、当初応接掛は、箱館については現地調査をした上で翌年3月の開港時までに決定すべしとの村垣與三郎の意見(『幕外』6-192)や、村垣の意見を尊重し、もしやむなく決定せざるを得なくなったにしても、範囲を可能な限り縮小すべしとの海防掛勘定奉行等の意見(『幕外』6-230)もあって、翌年3月までに決定したい旨ペリーに伝えたが、ペリーはこれを拒否し、即刻決定すべきことを強く主張したため、応接掛がやむなく3里四方を提案したところ、ペリーは「此度聢与約諾いたし、政府江申立候儀は仕兼候間、三里差許候与之書付を貰度、右を以政府江申立候様可レ致、左候得は政府ニ而不承知ニ候ハゝ、猶又軍艦を仕立可レ及二懸合一、其節ハ大統領之了簡ニ而、七里与申候歟十里与申候歟難レ計、且其節使節之了簡ニ而、如何様之儀可二申立一哉難レ計」と脅しをかけたうえで、「若又此度五里与定候ハゝ、如何様ニも使節引受政府江申立」と主張したため、このペリーの提案を受入れる形で両者が合意したことによるものであった(『幕外』6-234)。これについて『遠征記』は、「提督は、下田においてアメリカ人に許與されたと同じ廣さの地域を享有すべきことを提案したが、頑強な反対を蒙ったので五里、即ち十二英哩をもって妥協するのが得策と考へられた。又函館の隣接地域は山嶽重畳して住民も少いから、右の制限はあまり大したことではないであらう」と記している。まさに、文字どおりペリーの威圧的な要求におしきられて決定したものだったのである。
ところで、この条約附録は、そのあり方において、日米和親条約のそれと重要な点で相違した側面を有していたことを指摘しておきたい。日米和親条約では、日米両国の全権とも相手国の言語を理解できなかった(日本には英語の、アメリカには日本語の有能な通訳がいなかった)ため、日米交渉が第三国語である中国語(漢文)とオランダ語で行われ、かつ条約文も英文、中文(漢文)、和文、蘭文(及び蘭文和訳)の4種類が作成され、しかも調印の際、ペリーは英語版のみに、林大学頭他の応接掛は日本語版のみに署名するという異例な形態をとったが(表序-3参照)、条約附録では、第7条に「向後両国政府において公顕の告示に、蘭語訳司居合さる時の外ハ、漢文訳書を取用ふる事なし」、末文に「右条約附録、エケレス語・日本語に取認め、名判致し、是を蘭語に翻訳して、其書面合衆国と日本全権双方取替すもの也」(『幕外』6-225)とあるように、以後日米間の交渉においては、原則として漢文の使用を廃止したのみならず、この条約附録そのものが日本語と英語の両国の言語で作成され、両国の全権が双方に署名したうえで、その証拠としてオランダ語訳を交換することとしたことである。英語と日本語による正文の作成という条約の形態は、その後のハリスとの条約に引つがれていっただけでなく、双方の言語を正文とする諸外国との条約の先がけともなったものだけに、この条約附録のもつ外交史上の意味は大きかった。