箱館に寄港した外国船の乗組員たちは、箱館港掟則で行動を制限された。上陸時間は日の出から日の入りまでであった。上陸した水夫たちの気晴らしは、散歩、買い物、飲食を楽しむことなどであっただろうか。日本人の店だけではなく、万延から文久年間には弁天町にアメリカ人ブラッドフォードの経営する「居酒屋兼宿屋」があったことが記録に残っている(万延元申年正月より12月迄「応接書上留」)。こんなところは特に外国人で賑わったのだろう。ところが、慶応元年に改定された同掟則では、その第3条で「諸水夫上陸の上日本人より酒又は酒類買取呑べからす、且水夫等酩酊の上陸手に居る事を免せず」という条項が設けられ、日本人の店で酒を買って飲むことが禁止された。もちろん、それに対応するように、箱館市中には「日本酒洋酒通懸り外国人へ一切売渡間数、若売渡候者有之おいては、吟味の上厳重の咎可申付候」と外国人へ酒を売らぬように厳しい触書が出された。なお「外国人酒店渡世」については領事の免許によった(「各国領事触達簿」道文蔵)から、外国人の店は許されたのである。それにしても、船員たちが陸上で酒が入手できる店は大幅に減ったわけで、これは酔った水夫たちによるトラブルを恐れてのことであったと推察される。
また、船から逃亡して市中に隠れたりする水夫たちのことが運上所の諸記録にかなり見られる。捕鯨船の水夫らは苛酷な労働条件下にあり、寄港先で逃亡するのはさして珍しいことではなかったらしい。逃亡が発覚すると領事は奉行所の役人たちに要請して探索を行ってもらい、船員は捕縛され牢に入れられた。「市中の牢屋」や、「運上所の仮牢屋」、また「亀田の牢屋」という場所が使われている。外国人の入牢中の諸経費については、領事が日本側に支払うことになっていたので、「異人賄御入用調書」が作成された。それをみると牢内での待遇は外国人であっても特別ではなく、日本人囚人と同様の扱いをされていたことがわかる。支給物は、ちり紙が1日2枚、筵が1枚と俵が与えられている。筵は床に敷くもので、俵は寒冷地のため、臥具として支給されたのである(重松一義編著『北海道行刑史』)。食事についても「毎日、米とゆでたイモと、うすいお茶だけ」のように特別扱いをされた様子はない。劣悪な環境から病人が出て、医師が派遣された記録もある。欧米人といえどもここでは前近代的な扱いに耐えなければならなかったわけである。牢を出た船員たちは、生国へ送還されるが、捕鯨船の船員については、箱館あたりに寄港すると、容易に補充ができないため、牢を出てまた船に乗ることもあった(H.A.Tilley「日本・アムール川・太平洋」(抄)『地域史研究はこだて』第4号)という。