それまで名村が行ってきた英語の教授は、あくまでも公務の余暇にという程度のもので、もちろん彼の本務は通弁御用であった。その後安政6年2月に、改めて老中から達しがあり外国との交流が始まると、通訳はもっとも重要だから、(中央でのみならず)各開港場でも通訳を養成するようにせよという指示が出た(『幕外』22-120)。この達しもあってか、箱館では英語稽古所(通詞稽古所ともある)の設立をみるに至るのである。英語稽古所は運上会所構内に設けられたのだが、いつ頃できたかは、次の万延元年12月付けの史料から見当がつく。
乍恐以書付奉願上候
才助
当年三十人才
附小遣是迄六人御座候処、今般通詞稽古所新規御取建並、追々御用向相嵩御差支にも相成候ては、奉恐入候間、依之申上候も恐多御義に御座候得共、可相成御義に御座候はば、書面の者平生実体慥成者に御座候間、増小使に御召抱被下置候様奉願上候(以下略)
(万延元中年正月より十二月迄「異船諸書付」道文蔵)
すなわち、稽古所を新しく設けたので業務量も増えるであろうから、運上会所付き小遣の増員の分として雇ってほしいという願いである。運上会所が完成したのが10月だから、その後間もなく12月中には英語稽古所もできていたことがわかる。
名村が帰国して箱館に到着したのは、12月4日である。したがって、この稽古所の設立と前後して帰って来たことになろう。名村がここで教授を始めたのも12月中であったことは、先程の運上会所増小遣の件中にある名村本人からの願いに、「私共日々英語稽古所ニ出席、稽古仕候」とあることでわかる。また、「弁当相用候砌、其分雑事相弁候節」、小遣がいなくては差し支えるというほどであるから、朝から晩まで生徒も先生も熱心に勉強した様子が窺える。これ以後は、名村はもはや暇を見てではなく、大部分を教授役に費やしていたのかもしれない。そして文久元年からは「英学教授掛」としての手当が支給されることになったのである(文久元酉年7月ヨリ12月迄「応接書上留」)。ここで対象とした生徒は、主に同心や足軽、在住の子弟、厄介であった。ただその他、箱館詰の津軽藩の藩士、神辰太郎、吉崎豊作、佐山利三郎の3人が学んでいる。元治元年にはそのうち、神辰太郎が、箱館での通弁御用を依頼され、また、明治元年には佐山利三郎が、運上会所の外国方に雇われている。
立や塩田に次いで名村の第2期生ともいえる生徒たちがここから巣立った。文久元年に通弁御用を申し渡された、東浦房次郎、南川兵吉、近藤源太郎、小林国太郎らである。また同3年には稲本小四郎が見習いになっている。このように、箱館での通訳の養成が軌道にのってきたため、奉行はついに文久2年以降の長崎からの通詞派遣の中止を決定した。実際に最後の派遣通詞が箱館から引き上げていったのは、文久2年の春頃のことであった。