通訳者の待遇

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 箱館奉行は、長崎からの派遣の通詞を断ったので、そのために要していた諸経費を文久2年から通弁御用のものへ振り向けたいと老中へ申請した。配分の仕方は能力や身分に応じた階級を設け、進歩するにつれて上げていって、励みにさせようとした。案では、上等(手当金50両、筆墨料1月1両)・下等(同30両、同1月2分)・見習い(同10両、同1月1分)の3段階にして、手当金と筆墨料を与え、上等と下等には身分に応じ扶持を与えた。それに対して見習いは筆墨料月3分のみの回答があり、手当金は認められなかったが、あとはこの通り承認された。だが、文久2年7月に、さらに下等を下一等(手当金15両、筆墨料1月2分)、下二等(同10両、同1月2分)と分け、この時扶持は与えられなくなってしまった。能力の判断にあたっては、公平に試験が行われて階級付けされた。この7月当時の通訳たちの能力は、海老原錥四郎、鈴木清吉、近藤源太郎、小林国太郎は下一等で、南川兵吉、東浦房次郎は下二等であった(前出「御手当元済」)。この時には塩田や立の名前はないが、外国へ派遣されるほどの実力で、当然上等の手当を受けていた。ここで同時期の外国人の評価としてイギリス領事代理エンスリーの言をあげれば、「英語にての談判にはミストル名村、宮川(塩田のこと)の外、通弁役の能出来さる義に付」(文久2戌年正月ヨリ12月迄「各国書翰留 英仏」道文蔵)ということになる。立広作は遣欧使節に随行してこの時は箱館にいなかったが、上等のクラスにならなければ一人前の通訳としては勤まらなかったことがわかるのである。
 当時通訳者の大部分を占めていたのは、足軽や同心といった小給の者の子弟であり、上等に達しない限り一人前の生計をたてるのも難しかった。開港場での通訳業務は決して容易な仕事ではなかったはずだが、総じて通訳の地位は低かった。重要な任務でありながら冷遇されていたといえるだろう。