施政方針

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 箱館府は、開庁と同時に新政府の施政方針の普及教化に着手する。旧幕府の高札を掲示場からすべて撤去し、「五條の掲榜」に取り換えた。この高札は、新政府がその基本施政方針を広く全国民へ知らせるため、3月15日掲示通達したもので、「一 人たるもの五倫の通を正しくすへき事、一 鰥寡孤独疾病のものを憫むべき事、一 人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪業あるまじく事」(「太政官日誌」『維新日誌』)の3か条で始まる第1札から第3札までの「定」で五倫の道を説き、悪業、徒党、邪宗門の禁止を謳い、第4、第5札の「覚」では攘夷を禁止し、万国公法に基づいた外国交際を行うこと、士民の本国脱走禁止などを謳っており、封建的統治策の継承を表明したものではあったが、天皇制による統治開始を強調したものとなっている。さらに「おさとし文」等を布告して、「王政復古」「天皇親政」の周知をはかり、「御一新」を強調、「王政はひろく教を設けて民の害をのぞき、生育の出来がたきものを救ひ給うものと心得、おろかなるものへ説きさとすべきもの也」(「旧記抄録」『函館市史』史料編2)と、王政が民政安定の基であると説いている。しかし、戊辰戦争は東北地方へと戦線が拡大され、奥羽戦争といわれる状態となり、慶応4年に入ってから滞りがちであった物資の供給が、箱館裁判所(箱館府)が開庁された5月は最も活況を呈する時節に至りながら閉塞してしまい、不安と動揺はさらに増幅されていた。
  このような時、5月26日、秋田にあって孤立してしまっていた奥羽鎮撫副総督沢宣嘉の使者が入港、沢副総督の窮状を伝え、軍資金及び弾薬等の救助を訴えた。箱館府は彼らに頼まれた軍需物資をようやくのことで整え、秋田に送ることができたが、元々乏しい資金で出発した箱館府の財政は、破綻寸前に追込まれていた。この時秋田に送った軍資金は3000両であるが、文武方権判事堀真五郎は、彼の回想録『伝家録』の中で、箱館府の金庫に余金がなかったため総督以下が月俸を割いてこれに当てたと述べている。このため、主任判事井上石見は、蝦夷地経営資金確保、拡大する戊辰戦争に対する新政府の対応策聴取、プロシア商船ロワ号買入交渉等の任務を負って、6月3日、イギリス商船で横浜へ向かった。井上石見長秋は鹿児島の諏訪神社の神職で早くから尊王の志士として奔走、岩倉具視と薩摩藩の橋渡しを担当したおり、蝦夷地の開拓にも一家言を有し「蝦夷開拓ノ事ニ付、機械ヲ製造シテ、人力ヲ省略スルノ策、急務ト奉存候」と言上したところ、具体策を提出するようにとの「御下問ヲ蒙リ」、「蒸気機械ハ俄ニ製シ難ケレハ、先ツ水車ノ一事ヲ以テ……追々器械ヲ以テ成シ得ル限リヲ極メ、無益ニ人力ヲ費サヽル様、遠大ニ思慮ヲ尽サハ、国家富強ヲナスコト又何ソ難カランヤ」(「太政官日誌」『維新日誌』)と言上、蝦夷地の開拓に機械力を導入することを力説し、箱館府の実質責任者として箱館在勤を命ぜられた人物であった。