また、日常の生活物資のほとんどを本州に依存していた蝦夷地では、これらの物資の確保、中でも「米」の確保が為政者の責務であった。しかしこの年は、出荷地の北陸及び東北地方の政情不安を反映して、まったく米の入荷が途絶え、諸物価は日増しに高騰していった。上京中の井上石見へ回米の確保を依頼した会計方権判事厳玄溟の6月28日の書簡には、その現況を「例年、全島の入米二十万俵の内、六月中に十五、六万俵も入津これあるべきところ、当年は今において七万俵内外にて、其他塩噌を始、日用の百物一切払底致、市在共困迫の仕合」(『伝家禄』)と述べているほどであった。箱館府は、津軽・南部両藩に回米を依頼したが、奥羽越列藩同盟の取扱いをめぐって家中が揺れ動いていた両藩は、回米の確約を渋ったため、米の確保の目処が立たず苦況に追込まれていた。このためたまたま滞函していた加賀藩士に、2万石程の回米の周旋を依頼したところ、箱館府から正式の依頼状をもって依頼があれば、何とか尽力したいとの回答を得た。箱館府は金沢へ使者を派遣することに決し、従事席として会計方を務めていた阿波蜂須賀藩士後藤是輔、江原長一の両名を派遣した。彼らは7月6日に金沢に到着、加賀藩の勘定奉行らと交渉、商人貯米1500石の回米を周旋する旨の約束を得たが、藩米の回送は断られた。そこで彼らは、京都へ出張中の井上石見を通じて、太政官へ加賀藩米の蝦夷地回米と代金の立替を依頼すべく京都へ上った。しかし京都にいるはずの井上石見は、予定を変更して、横浜、東京での用務を終えた後、急遽帰函してしまっていたので、彼らは直接太政官へ出頭、蝦夷地の窮状を具状し、加賀藩へ蝦夷地への回米指令を出すよう嘆願した。だが井上石見が出頭しないことを理由に嘆願は拒否されたので、このままでは「箱館表、方今至急御救助無御座候ては所謂御因循と奉存候、則彼地土民共餓死致候場合直に可有之、実以旧幕に相劣り候御政務と相成、全御役人始天朝御恨申上候哉と奉存候」(清水谷文書「箱館裁判所掛仮日記」『函館市史』史料編2)と再度嘆願し、太政官の配慮を訴えた。8月20日、加賀藩へようやく次の通りの申し渡しがなされた。「箱館府の儀、東北残賊未及鎮定、道路梗塞米穀欠乏の趣に付き、其藩にて穀物手操いたし早急運輸候様被仰付候事、但代物の儀は、追て御下渡可相成候間、穀物早々取調可伺候事」(前掲清水谷文書「箱館裁判所掛仮日記」)。この指令書に基づいて滞坂中の三沢揆一郎(井上石見の代理として京都に出張した箱館府司事で、8月18日外国権判事となる)が、9月4日5000俵受取ったが、箱館へ回送できたかどうかは不明である。
一方、金沢の商人貯え米の一部は、加賀藩の駿相丸で9月15日越中伏木港から積出され、9月22日箱館港に入り、諸手続きを済ませて10月15日箱館府の米蔵に納められた。しかし代金も未払いのうちに旧幕府脱走軍の襲来を受け、清水谷公考知府事以下はあわただしく青森へ逃れることになってしまった。駿相丸は脱走軍との交渉でようやく出港の許可は得たが、米の代金未収のために資金不足で身動きが取れず、フランスの商人ヴーヴの依頼により南部から石炭を運ぶ仕事などをしながら箱館で越年、翌明治2年3月ころようやく加賀に戻ったようである(清水谷家文書「金沢藩士田村栄二郎上申書」東史蔵)。この加賀米は、旧幕府脱走軍の粮米として用いられたようであるが不明である。このように箱館府は、回米対策に有効な手を打つことができずに終わったのである。