蝦夷地における戦闘前に、脱走軍の海軍力を総動員した海戦が南部の宮古湾で行われた。明治2年3月に入って、品川湾を出帆した新政府軍の軍艦8艦が、南部宮古湾へ入港との情報をキャッチした脱走軍は、その艦隊の旗艦ストンウォール・ジャクソン(甲鉄)を奪うことによって、開陽の沈没で低下した海軍力の挽回をはかるため、宮古湾奇襲作戦を計画した。
21日未明、海軍奉行荒井郁之助(矢田堀鴻の甥)の指揮のもと、回天、蟠龍、高雄の3艦は、切込み隊として彰義隊、新撰組、神木隊等の陸軍を乗せて箱館港を出帆した。しかしここでも気象状況は脱走軍に味方せず、23日、強風と高浪で3艦は散り散りとなり、奇襲決行予定日の25日未明には、回天のみが宮古湾口へ到着する結果となったのである。甲鉄以下の諸艦の碇泊を確認した回天は、独力で作戦を決行することに決し、米国旗を掲げて湾内へ進入、アボルダージュ(接舷=abordage)と叫んで、旗を日章旗に代えて甲鉄の左舷へ乗掛け、甲板へ切込みをかけた。しかし甲鉄の甲板が1丈ほども低くて飛込みが躊躇され、ようやく大塚波次郎、野村理三郎らが飛び移ったが十分な働きをしないうちに討取られてしまった。このため、奇襲に驚いていた甲鉄艦乗組員も落着きを取り戻し、ガットリング機関砲および小銃で応戦を開始した。1分間に180発撃てるガットリング機関砲の威力は絶大で、海軍士官矢作仲麿を始め甲鉄へ飛び移ろうとした者は次々と討たれ、艦上で指揮していた艦長甲賀源吾もこめかみに弾丸を受けて倒れた。荒井は、作戦の失敗を認め、湾口を脱し箱館へ逃げ帰った。甲鉄が横浜碇泊中に艦内部を熟知する機会のあったことにより蟠龍に乗り込んだ山内六三郎(のち堤雲)の回想に、「蟠龍は低く東艦(甲鉄はのちに東艦と改称)に乗入るに便なれば、冀くは神助を得て該艦に乗入るを得ば、士官部屋の下なる火薬庫に飛入り臨機之を爆発せしめんと期したるなり」(自叙伝」『同方会誌』)とあるのをみれば、3艦の連携プレーが乱れた時点でこの作戦は諦めるべきで、回天の宮古港突入は無謀であったようである。日本における近代的な海戦のさきがけとなったこの戦闘は、戦闘時間約30分、脱走軍死傷者50人余、新政府軍死傷者30人余という大激戦であった。
なお高尾と蟠龍は、この戦闘の終了時に宮古沖へ着いたが、回天とともに新政府艦隊に追跡されることとなった。船足の遅い高尾は逃げ切れず、南部の海岸に乗付け乗組全員が降伏、東京に護送され、蟠龍はようやく箱館へ逃げ帰った。