この動きを見ていた開拓次官黒田清隆は、明治6年に入ると函館に裁判所を設置する方向で検討を開始した。正院への伺案を作成した黒田清隆は、これを杉浦誠のもとへ送り意見を求めた。杉浦は、「函館は外国人も多く雑居、関連の訴訟もしばしば起こるが、内外関係の事件の処置は難しく、外交上の失態となるようなことがあってはと何時も気に懸けていたことで、私のほうから懇願すべきことでした」と述べ、さらにこれまでは北海道独自の体制を作って諸事を処置し、その結果を踏まえて内地同様の方向へ持っていくという開拓使の基本姿勢にも触れた上で、「この点に問題がなければ函館裁判所設置に異存はない」との意見書を作成して東京出張所へ送った(「開公」5767)。これは意見を求める依頼状が届いて(2月12日落手)から10日ほど懸けた杉浦の結論であった。
この意見書を見た黒田は、4月15日、「当使管下函館ハ開港場ニテ(中略)裁判沮滞ノ弊出来致シ内外人民ノ難渋ト相成、自然外交上御失体ノ事ト相生候テハ不容易事ト兼テ焦慮罷在候、然処司法省ニ於テ事務御更張、追々各府県ニ裁判所設置候趣、又右ハ緩急先後ノ順次モ可有之候得共、函館港ハ前陳ノ如ク開港場ノ儀ニテ現今弊害差競候条急速裁判所被置度、勿論百事御委任ノ地方ニ付札幌其他ノ治下ニ至ッテハ同省ノ手ヲ煩サスシテ担当イタスヘク、唯函館ニ限右ノ情実御洞察ノ上別段ノ御決議相成度」と函館への裁判所設置を正院へ伺い出た(「開公」5793)。
函館裁判所設置を司法省へ働き掛けるよう要請した黒田からの伺書を受け取った正院は、裁判所設置費用に関心を示し、正院は裁判所設置に係る経費負担について詳細な調査を行い、裁判所が設置された際に廃止となる函館支庁刑法課経費と実際に外国人との係争を担当していた函館支庁外事課の関係部分経費を開拓使が函館裁判所へ引き渡すことで話がまとまった(「開公」5793)。ところが、正院は実務的な話は進行させながら先の伺書に対する指令は出さなかったため、12月27日、黒田は指令の催促を行った(「開公」5767)。
この催促状の効果か司法省から函館・長崎へ裁判所を設置する伺書が太政官に出され、承認されたため、翌7年1月8日、太政官は開拓使へ「其使管下渡島国箱館ニ裁判所設置候条此旨相達候事 但司法省官員出張ノ上聴訟断獄ノ事務可引渡事」との達を出した(「開公」5793)。
函館裁判所の設置が決定され、聴訟および断獄の事務が引継がれることとなった。聴訟事務というのは主に現在の民事事件を取扱うことで、断獄事務というのは刑事事件を取扱うことである。