函館地子永と呼ばれた地租は、沽券地という私有宅地に課せられた税であるが、「維新前町村制度考」(『函館市史』史料2)によれば「安政四(一八五七)年初テ其制ヲ立ツ」とあって、幕末期に徴収が開始されたもののようである。また、同書は沽券地についても、函館では昔から住居する土地は自然に私有地となっており、先祖代々の地には沽券状はなく、税の徴収が開始された頃から官地払下げや先祖代々の地売買に際して官に願受書[永代沽券地願]を提出し、私有地の証[沽券状]が作成される体制となり、願受書には地子永を納める旨の記述があり、町代が連印し、名主町年寄が奥書したと述べている。
この地子永が開拓使設置後地税と改称され、明治5年函館市街地に地券が発行されると地券税(8年からは市街地券税)と改められ、地券金の100分の2としたが、翌6年7月には前年にさかのぼって1000分の8と改められた。その後9年12月に全道の地租が一定とされ、地価の100分の1となった。また沽券地以外の官からの拝借地には、先に掲げた表の如く拝借地冥加永が課せられたが、その後については明治5年1月に拝借地税を税外収入に編入する(『開事』5)とある以外不明である。