北海自由党結成の動き

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 山本忠礼らが明治14年末に自由党に入党したことは前述したが、その後山本忠礼が入獄したこともあってか、15年の彼らの活動については、山本忠礼経営の食料品店「六花堂」が本業の余暇に販売していた「自由新聞」を地蔵町の「脩文堂」に専売委托したこと(15年7月15日「函新」公告)と、次の一件を確認できたにどどまる。7月23日、朝鮮の京城で反日感情の高まりから日本公使館が襲撃されるという事件が起きた。これに対して函館の自由党員が抗議行動を起こしたことが8月10日の「函館新聞」に載っている。
 
当道にて自由党員其人ありと世に知られたる当区山本忠礼、井口兵右衛門、杉野源次郎、枚田藤五郎、工藤弥兵衛、林宇三郎、小野亀治七氏の方々には、馬車にて一昨日(八日)亀田村杉野氏の別荘に集会され、今度朝鮮にての変事は日本国の国体に関し甚だしき侮りを受けしものなれば、苟も日本国民たる者は之を知らず顔に付すべき筈なし、付ては政府へ征韓の議を建白し九牛の一毛なりと雖も、其入費として我々より金百円を献納せんとの議に決せしが、之れをば直ちに東京の寧静館林包明氏(自由党結成時の幹事)へ申遣し権限せんと云ひしに、小野亀治氏は否とよ地方官のあるなれば其手を経て申出るこそ至当なりと主張されしが其論は廃案になり、遂に一昨日右旨を東京同党員林包明氏の許に申送られしとかいうと亀田村の去方より投書あり、さても雄々しき御事にこそ

 
 一方次のような話も残されており、自由党という存在が函館市民から理解される存在とはいい難い状況であったように思われる。
 
函館地方は当春以来千金丹売の行商が渡り、また此に類似の薬売りが群をなして市在その売声を聞かざる所なし、中に狡猾な奴がありて、拙者ともは自由党員だが地方の民情を視察のために身をやつして行商人となって歩くもの、民権張らざるべからず、丸薬買わざるべからず、貴様たちも薬でも呑で気を慥かにしろと恐嚇つけられ、左様いふ訳では一二帖は買ずば叱られべいと、迷惑ながら買ものもりしが、追々甚だ酷しくなりては、其筋へ聞えんとや恐れけん、忽ち潰散して已に同地は其跡を絶たりと、民権を以て売薬の後援とす、自由家の迷惑しるべし
(十五年八月十二日「東京日日新聞」)

 
 ところが翌16年8月になると突然次のような記事が「函館新聞」に載り、山本忠礼らが北海自由党を結成したことが知らされる。
 
此ほど谷地頭朝田楼にて開きたる自由懇談会へ会合されたる有志の人々は、一昨日また豊川町武蔵野楼へ集会され、更に自由党を組立てられ、其幹事には山本忠礼氏、副幹事には橘幾治小野亀治の両氏が選に当り、其他色々談話ありしよし
(十五年八月十日「函新」)

 
 8月1日に工藤弥兵衛、林宇三郎、山本忠礼、池田六右衛門、木下忠右善一郎、小野亀治、小橋栄太郎が会主となって開催された自由懇談会で、北海自由党結成の方針が模索され、山本忠礼を幹事に北海自由党が活動を開始したようである。その後の動きから、この頃に正式な結党届けを提出していたと思われる。なお、この自由懇親会は、北海道遊説中の和田彦二郎(「函館新聞」には東京で開催された自由党員による偽党撲滅演説会出席者と紹介されている)を中心に7月20~21日と27~9日にかけて開催された政談演説会の慰労を兼ねた懇親会であった。