第1議会への請願

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 明治20年代中頃、数年間にわたって、函館、札幌、小樽の3地域を中心に、全道的な規模で北海道議会開設運動が展開された。これは、函館以外の郡区では代議的機能がある町村総代人が存在し、函館に区会が開かれたのみという、明治初、中期の北海道の地方自治制の未施行、未権利状態を脱却しようとする道民の主体的な政治運動であった。函館における北海道議会開設運動の発端は、明治10年代以来の自治論なり、区会運営の経験等を基底に置きながらも、直接的には明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布と翌年の帝国議会開設に刺激されたものであった。憲法に付随する衆議院議員選挙法において、北海道は地方自治制度の未施行を理由に沖縄、小笠原諸島等と同様に選挙法の適用外にされるという政治的未権利状態に陥ったことが自覚されたからである。特に幕末以来、開港場として繁栄し、本州並み、あるいはそれ以上の経済的発展、市民社会の形成をなしていた函館市民の不満は大きかったといえる。加うるに政府による北海道庁経費の5年間据置き方針の情報が流れたり、貴族院議員中多額納税者議員互選規則も北海道には施行されないことが判明し、北海道選出議員のいない国会で開拓の大綱や道関係予算が審議・決定されるという行政上の不利が現実化される勢いとなり、拓殖事業推進のため予算増額を望む道民の要求と国会、政府のあり方、方針が対立することとなってきたのである。
 開会中の第1議会において明治24年1月、衆議院予算委員会の北海道関係経費24万円の減額決議がなされ、1月23日には、自由党代議士高津仲次郎により、「北海道に地方議会を設くるの議」が衆議院に提出されたことが報ぜられた。この2つの国会審議に関する報道に刺激されることにより、開拓推進のための北海道関係予算節減反対と自治制確立のための北海道議会開設要求とが一体となり、函館の道議会開設運動が開始されるのである。
 明治24年1月25日、富岡町町会所において国会への請願運動に関する函館有志の発起人会が開かれた。この会は数回の協議を経るという準備の上で開かれ、会には発起人24名中、常野正義、平出喜三郎、工藤弥兵衛、佐瀬精一、馬場民則、上嶋長久ら21名が出席、北海道議会設立の要項を決定した。
 
一 北海道議会を開設すること、此議は衆議院に於て一の嫌疑と為り居ることなるが其権限の如きは如何にする乎其方案分明ならず若し彼の府県会の如く単に本道の地方収入支出を議定するものならば其権限甚だ狭隘なるを以て我々は本道の為めに取らず因て次に述ぶるが如き方針を以て府県会よりも更に大なる力を有する議会を設立すべきこと
一 議会の権限は単に北海道地方収入の支出を議するのみに止まらず国庫より補給を仰ぎ居る所の事業費の収支を議定するの権限を与へ尚本道の拓地植民に関する施設の方針に付道庁の協賛基幹となること
一 北海道議会は帝国議会に向つて陳情委員を派出し北海道の問題に対する討議に立会ひ意見を述ぶるの特権を有すべきこと
一 北海道議会に(ママ)議院撰挙法は国税五円以上を納むる廿五歳の男子にして公権の禁停中に係らざるものは選被選権を有することに定むべきこと
(明治二十四年一月二十七日「函新」)

 
 右を内容とする意見書を作成し、函館の有志者の賛同を募り、陳情委員を選んで上京させ国会議員に運動することになった。国会への請願運動は当初、全道一致で行う方針であったが、第1議会開会中という切迫した事情により、江差、福山等、連合が容易な道南地域とのみ共同歩調をとることになったのである。意見書の起案委員として平出、工藤、林宇三郎が投票で、外に佐瀬と上嶋の5名が選ばれ、起案委員は27日に委員会を開いて起案を行った。これを受けて28日に発起人19名が出席して会合がもたれ、議論の末、次のような請願事項が決定され、請願事項に関する説明、意見の文言は起案委員に一任された。なお、この発起人会には福山の岩田栄蔵が列席していた。
 
     北海道議会の権限
第一 北海道庁に於て国庫の補給を受る所の事業費の予算収支を決議すること
第二 北海道地方費の収支を決議すること
第三 北海道庁令其他の規定にして北海道人民の利害は大に関係を生すへきものと認る時は意見を述ること
第四 北海道庁の歳計予算按及び北海道に関する法律按が帝国議会に提出せられたる場合に於て特に委員を派して事情を陳述すること
     北海道議会の組織
第一 北海道議会の議長は議員中より撰挙すること
第二 北海道議会は撰挙規則に依りて公撰せられたる議員を以て組織すること
    北海道議会議会議員撰挙法按
第一 議員の人数は大凡そ人口一万人に付一人とすること
第二 議員の撰挙及び被撰挙権は北海道内に於て地価金三百円以上の土地を所有し年齢二十五歳に達したる男子之れを有すること
(明治二十四年一月二十九日「函新」)

 
 さらに2月1日に大会を開くこと、運動費は有志の義捐金によることが議決され、上京委員として工藤、馬場、補欠に平出が選出された。
 2月1日、町会所に240余名が参会し有志大会が開催された。これは発起人より「居常実業に従事し孰れも皆な財産あり名望ある所謂中等以上の人々」(明治24年2月1日「北海」)約600人に出された招待状を受けた人々であった。大会では28日の発起人会で決定された意見書原案の内、議員撰挙法第2項の「北海道内に於て地価金三百円以上の土地を所有し」を、「北海道内に住居し地価金二百円以上の土地を所有し」に改められた外は原案通りに可決し、ここに「北海道議会設置之意見書」の成立をみ、意見書への署名が行われ、町会所に請願事務所が置かれた。函館の主張する北海道議会は、北海道関係予算の収支決議、国会への委員派遣など、府県会の権限を超える殖民議会的な内容を有していることが特徴といえる。
 2月4日、請願委員の工藤弥兵衛、馬場民則は意見書を携え、有志の見送りを受けて出函、7日に着京した。上京後の工藤、馬場は国会議員への陳情に奔走するが、「当地(東京)の有力者に於て其方針を一変し単に之が意見を提出するに止めず一歩を進めて請願を為せんを決せり而して都合に依り北海道議会の権限中北海道議会より帝国議会へ委員を派遣するの一項は削除すること」(明治24年2月11日「函新」)になった。道議会開設のための国会議員への陳情用としての「意見書」は、国会への「請願書」となり、内容も一部変更された。函館では、発起人を中心にして、この「請願書」による地域署名が続けられ、さらに福山、大野、上磯等の地でも署名活動が進められ、2月10日、205名調印の第1回の請願書が東京に送られ、25日に第2回の請願書が送付された。28日には、函館、福山、大野の第3回の請願書が、3月に入ると上磯の第4回の請願書が東京に到着し、それぞれ上京委員により、国会議員の紹介をへて国会に請願された。この間、江差でも関川与左衛門等により、函館と密接な連絡をとりながら運動が進められ、函館と同一内容の請願書が作成され、110名余りが署名した請願書が2月18日、函館に到着、21日、東京へ郵送され、24日国会に提出された。なお根室においても函館と同一内容の請願署名が行われ、2月26日国会へ提出されている。しかし、3月7日衆議院は閉会となり北海道議会案は議題にも乗らなかったのである。
 上京委員の工藤、馬場は3月18日帰途につき、21日に帰函した。3月23日、町会所で上京委員の報告会が開かれ、江差より来函した関川与左衛門、矢木小三郎を含めて70余名が出席した。会では上京委員の馬場より上京以来の活動経過、林宇三郎より会計報告がなされ、第2議会に対しても請願運動を継続することが決定された。翌24日、蓬莱町の金仙楼において上京委員慰労会が持たれ、約40名が出席、江差の関川、矢木に加えて福山の有志総代前田富太郎も参加している。