さて、明治14年以降の土地の動きを追ってみると、私有地の拡大期-私有地の運用期-安定期-地租の増徴期-地租改正という大きな流れになるのではないかと考えられる。私有地の拡大は、地租改正前、地券発行以来続いており明治14年より16年の間で、約10万坪の官有地が払い下げられた(明治14年12月~同16年12月「函館市街売下地券受印帳」)。この中には、谷地頭埋立地も含まれており、その他真砂町、船場町、元町などの割合が高いことが知見できる。また明治18年7月1日時点での官有地貸下地が約15万坪あって222名に貸下げられており、東川町(49名)と大森町(47名)が多い(明治18年「照準参考録」)。そしてこれらの土地が随時払い下げられて私有地化していくことも想定できるのである。
次にこれらの私有地が売買や質入などに運用されることが多くなった。明治16年の『函館県統計書』にはじめて地所売買高や地所の質入貸借高などが掲載されるようになった。この地所、建物などの資産財の運用を年度別にまとめたのが、表4-10である。同表からは、明治21年より24年までの全体的増加傾向から、同25年のやや減少傾向が読みとれ、同29年にピークに達し再度減少という一応の動きが理解できる。これらの増減の動きは後で述べることになるが、都市整備との関連が想定できる。つまり明治29年のピーク時について「函館に於ては鉄道熱の沸騰と共に其敷地に相当せる土地買占め其他種々の事情に由って土地の賣買頻りに行はれ一時は殆んど其全盛の域に達したる」(明治29年11月20日「樽新」)とあるように、社会資本の投下が地所の運用に与えた影響は大きかったと思われる。
しかしこの地所熱も後半になると沈静し、「来春迄は思はしき取引も非らざるべし」と同新聞は報道している。しかし翌年には「函館に於ける地所売買熱は目下非常に猖にして随て其価格著しく騰貴し」(明治30年4月27日「樽新」)とあり、その結果市街地には売買する土地がなくなってしまったという状況であった。これが明治33年になると「先年の狂熱時代を終り」(明治33年4月27日「樽新」)、地所の売買はほとんど絶えたとある。その理由は、資産家が永年に地所を所持しようとの考えに変わり、転売などによる利益追及から不動産経営への移行が認められるのである。
表4-10 函館区地所・建物・船舶登記件数調
『函館商工業調査報告』、『北海道庁統計書』、『函館県統計書』より作成
売買関係分 | 質入関係分 | |||||||
地所坪数 | 建物棟数 | 船舶数 | 金額 | 地所坪数 | 建物棟数 | 船舶数 | 金額 | |
明治21年 明治22年 明治23年 明治24年 明治25年 明治29年 明治31年 | 坪 157,508 112,280 85,420 92,312 89,462 19,470,459 94,388 | 棟 322 382 518 672 925 655 499 | 艘 115 113 95 126 134 76 35 | 円 259,237 308,421 389,103 418,562 367,235 1,141,222 558,565 | 坪 84,220 75,253 100,627 110,318 107,231 33,827,250 279,674 | 棟 176 263 316 390 403 646 786 | 艘 25 26 45 77 120 61 42 | 円 165,664 198,871 276,086 395,678 359,632 1,326,485 1,007,222 |
『函館商工業調査報告』、『北海道庁統計書』、『函館県統計書』より作成
その後大きな変化を史料から知ることはできないが、明治37年になり日露戦争の影響で地租の増徴が行われる。日露戦争終了後も、この地租は下がることがなく、明治43年の地租改正によって整理されることになる(『函館市街土地明細鑑』)。つまりこの地租改正は、明治二十年代の地所運用などによってかなり地価が高騰したことにより、従前の地価と売買地価との格差を広げ、課税の均衡を失わせたことから必要になったことが推定できる。
また別の視点でこの事実を見れば、地価の格差が有益な地代を生む要因とも考えられよう。つまり日露戦争中に多くの土地所有をしていた相馬哲平は増税につれて、地代を平時より2割半値上げしただけで、地租の増徴との均衡を保っていたのである(明治38年2月15日「函館新聞」)。この地租と地代の増加率の違いは、地代が時価によって決められていることを示唆しているのである(表4-11参照)。
表4-11 土地賃貸・売買価格表 (単位1坪-円)
『北海道庁統計書』より作成
賃貸価格 | 売買価格 | |||||||||||
上等 | 中等 | 下等 | 上等 | 中等 | 下等 | |||||||
地価 | 賃価 | 地価 | 賃価 | 地価 | 賃価 | 地価 | 価格 | 地価 | 価格 | 地価 | 価格 | |
明治35年 明治36年 明治37年 明治38年 | 11 11 10 10 | 4.0 4.5 4.0 4.0 | 8.0 0.8 1.1 1.1 | 2.0 0.8 0.8 0.8 | 0.40 0.45 0.50 0.50 | 0.10 0.15 0.25 0.25 | 11 11 10 10 | 100 120 70 60 | 4.0 0.8 1.1 1.1 | 50 13 15 15 | 0.45 0.07 0.50 0.50 | 4.0 0.6 4.0 4.0 |
『北海道庁統計書』より作成
さて、これまで函館の市街地における明治5年の地券発行から日露戦争による地租増徴までを、土地に関連させながら説明してきた。特に明治14年の地租改正を重視しながら、その後の土地に関連する動きにも注目してきた。そして、この動きは都市整備との関連性を示唆していることも分かったのである。もう一点大切に思われるのは、函館のひとつの都市基盤にあたる地租改正は、明治11、12年の大火の街区改正後に実施されたことが、その有効性を高めることになり、次巻で扱われる明治43年の地租改正も同40年の大火となんらかの関係があると考えられるのである。つまり結果的な意味において、函館における大火は都市形成の変容を理解しやすいように、ある一定の時間の幅を設定してくれたとも言えるのである。