表4-25 水道創設までの各起業の内容
年 | 関連する人々 | 調査者 | 利用人口規模 | 工事予算 | 財源 | 収入財源 | 結果 | |
第1回起業 | 明治12年 | 区長 常野与兵衛 開拓棒大書記官 時任為基 開拓使長官 黒田清隆 | クロフォード (松本荘一郎) | 50,000人 | 138,040円 | 官費貸下金 | 輸出入品歩合金 分水および多量の水を 使用する者からの収入 船舶給水料金 | 中止 (明治12年の大火) |
第2回起業 | 明治16年 | 区長代理 二本柳九蔵 県令 時任為基 | 松本荘一郎の積算 | 人口および給水 区域の増の見込 | 225,547円 | 官費貸下金 | 分頭賦課金 分水賦課金 船舶給水料金 | 不許可 (国庫の窮乏) |
第3回起業 | 明治19年 | 区長 林悦郎 函館支庁長 時任為基 | 松本案採用 | 149,720円 | 区債発行 北海道庁からの補助 | 竃割賦課金 分水賦課金 船舶給水料金 地価割賦課金 | 不許可 (法制局からの指導) | |
第4回起業 | 明治20年 | 区長 二木彦七 北海道長官 岩村通俊 | パ-マー (平井晴二郎) | 60,000人 | 235,000円 | 区債 共有財産 北海道庁からの補助 | 戸別割賦課金 分水賦課金 船舶給水料金 | 許可 (明治20年11月25日付) |
『函館水道百年史』などより作成
この状況の打開策として考えられたのが、人民有志による具体的な歳入見込の提示だった。つまり函館港で取引される輸出入品の歩合金に代表される収入財源の検討により、水道創設にむけて具体的に動きはじめたのである。開拓権大書記官、時任為基は当時の区長常野与兵衛の「上申書」を受けて、明治11年8月26日付で「赤川ノ水ヲ函館ニ引導ノ儀ニ付伺」を開拓長官、黒田清隆へ提出した(明治11年~12年「水道開築一件書類」道文蔵)。
翌年にはアメリカ人御雇工師クロフォードらによる調査を進め、実施へと進展しつつあった。しかし、第1回起業は明治12年の大火にあい、やむなく中止となり、その後数年はその復興にあてられることになった。そして再び、明治16年に国に対し上請したが許可されなかった。当時は「松方デフレ」と呼ばれた時代で、国の財政事情が深刻な時期でもあったのである。
さて、函館区ではこのような経緯を打開すべく自力での実施にむけての行動として、明治16年12月6日臨時区会を招集し、水道起業費蓄積金についての提案をした。しかし、なかなか工費に充てるような金額には達しないまま、明治19年のコレラ発生の年をむかえることになった。今回は最も患者数が多く1022人を数え、そのうち846人が死亡した。この惨状に対し函館区長は「悪疫を防ントスルニハ先ツ衆庶熱望スル善良ノ水道ヲ急ニ設ケ、以テ直接悪疫ノ伝染スヘキ一般不良ノ飲用水ヲ改良スルノ外他ニ良策ナカルヘシ」と再び起業への熱意を示し、その具体的な方策として「道庁ヨリ利子ノ補助ヲ請フテ茲ニ区債ヲ興シ以テ速ニ該工事ニ着手センコトヲ欲スルナリ」(明治18~19年「区会決議録」)と区債の発行と北海道庁からの一部補助による計画をたてた。これに対し、法制局が政府の公債証書と類似のものを、区が発行するのは差し控えるべきとの見解を示し、第3回起業も実現に至らなかったのである(『函館区水道小誌』)。
これら3度の水道起業に共通する点がある。それは表4-26からわかるように起業の年がコレラの発生と連動している事である。このコレラ発生が水道創設の強い要望へと働いていることが理解できる。また次の各起業の経過をみれば、特に第3回起業は区が先行して行動しているが、それだけコレラによる影響も大きかったことを、示しているのではないだろうか。
第1回起業 | 区・函館支庁による陳請-総代人の出願-支庁の伺書-開拓長官の許可-調査-設計書提出-審査-中止 |
第2回起業 | 県の積算-松本荘一郎積算-区会-県に請願書提出-国への上請-不許可 |
第3回起業 | 区長らの協議-区会-函館支庁長へ申請-法制局へ諮問-不許可 |
第4回起業 | 北海道庁の再調査依頼-再調査-区会-水道起工委員の選任-設計書提出-長官へ稟請-政府へ稟請-許可 |
表4-26 水道創設の沿革
「函館新聞」、『函館市史』統計史料編より作成
年 | 事項 | 人口 |
明治10年 11年 12年 15年 16年 17年 19年 20年 21年 22年 | コレラ発生 第1回起業 大火(23,263焼失) コレラ発生 第2回起業 水道起業蓄積を始める コレラ発生(患者1,022) 第3回起業 亀田川転注工事着工(20年竣工) 町設仮水道着工(同年末竣工) 第4回起業 願乗寺川埋立着工 上水道着工(6月) 願乗寺川埋立竣工 上水道竣工(12月) | 28,344 27,334 30,376 35,513 38,417 43,142 45,477 46,794 52,403 52,909 |
これに対し第4回起業は、第3回起業案が不許可となる明治20年4月の直後に、今までとは違った経過からスタートする。それは北海道庁長官岩村通俊の指示により、パーマーを招いて再調査を依頼した。その後岩村長官がその報告を得て、大蔵大臣に申請し12月8日に閣議の決定を受けることができたのである。この申請については次のとおりであり、起業の許可については北海道庁長官岩村通俊名で下りている。
函館区水道起業費補給の儀稟請 |
管下渡島国函館区ハ現今戸数一万四一七、人口四万八、三六六ヲ有シ本道中最モ繁盛ノ市場ニ候処、其位置半島ニ成立チ市街ノ大半ハ山腹ニ在リテ、頗ル水脈ニ乏シキノミナラス、其質極メテ悪シク飲料ニ適スル者殆ト無之、衛生上並ニ防火上共ニ困難ナルヲ以テ、曽テ亀田郡赤川ヲ分疏シ水道ヲ区内ニ布設スルノ計画アリト雖トモ、当時種々ノ故障有之未タ著手ノ場合ニ至ラス、然ルニ区民ノ渇望ハ益々切ニシテ年々若干円ノ金額ヲ儲蓄シ該起業ノ資本ニ供スルノ方法ヲ設ケシモ、固ヨリ僅少ノ額ニシテ猶ホ数十年ノ後ニ非レハ起工ノ場合ニ至ラス、百方計画ノ央当庁ニ於テモ其事業ノ順序及ヒ費用ノ如何ヲ調査セシメシニ、別紙土木工師パーマー氏報告書ノ通金二三万五、〇〇〇ヲ要スル趣ニ有之、因テ勘考スルニ区民ノ良飲水ヲ得ル能ハス、別ケテ悪疫流行ノ際ハ其感染殊ニ甚シク加之防火用水ニ乏シク数々類焼ノ難ニ罹リ候、事実一日モ之ヲ等閑ニ付スヘカラス、幸今回区民ニ於テ水道布設ノ良挙有之旨別紙ノ通区長二木彦七ヨリ申出候間、該起業費ノ内金七万五、〇〇〇来ル二十一年度ヨリ向フ三ヶ年度ニ割合毎歳金二万五、〇〇〇円宛当庁定額内ヨリ補給致度候条、速ニ御允裁相成度書類相添此段稟請候也 |
明治二十年十二月八日 北海道庁長官 岩村通俊 |
(「公文類聚第十一編」『横浜水道百年の歩み』) |
起業の内容は第3回と第4回において、基本的には変わっていない。つまり財源として区債の発行と北海道庁からの補助によっていた。しかしながら、第3回起業では認められなかったこれらの財源が、第4回では認められた背景として政府の政策の変更が考えられる。つまり、政府は上水道問題を重視して、明治20年6月には閣議において、上水道公営の原則を決定するとともに、明治21年から内務省は、上水道に対する国庫補助制度を定めた。そしてまず3府5港に対して補助する方針を固め、その土木工事費について3分の1程度を助成することとし、その第1号として函館がその対象となったのである(『内務省史』)。同様のことは岩村長官の明治20年5月に行われた施政方針演説の中で「又独リ農業ノミナラズ、工作製造事業、即チ鉄道ヲ敷キ、水道ヲ架シ、或ハ海岸ノ埋立築立シヲ為スノ類」(「岩村長官施政方針演説書」『新撰北海道史』史料2)と新たな都市整備の視点が見られる。そしてこの発言と函館の水道創設にむけての岩村長官の施政とは整合することが前述のことから理解できるのである。
また第4回起業がなぜ許可されるに至ったかを考える際に、第3回起業との違いにも留意することが必要であろう。その点はパーマーによる再調査が付加されていることである。このことは、横浜水道創設の設計者でもあるパーマーの再調査の依頼時期は、まさしく横浜の水道建設工事が完成に近づいていた頃であった。つまり、我国においては未知数であった水道敷設にひとつの実績をもたらしたことが、国庫補助の対象に成り得た要因ではないかと思われる。
函館水道創設についての経緯は以上のとおりで、水道建設工事については明治21年6月10日に着工し、冬期間は休止して翌年12月11日に完成した。通水は完成に先立ち8月18日に行い、疎水式は翌月20日函館公園において盛大に挙行された(『函館水道百年史』)。なお工事費については表4-27のとおりである。
表4-27 函館水道創設工事費
『函館市史』統計史料編より作成
 収入の部 公借金 補助金 共有基本金 水道起業費蓄積金 合計 | 円 110,000.000 75,000.000 41,250.671 19,961.039 246,211.710 |
支出の部 運搬諸費 水源堰堤建設費 沈殿池建築費 配水池建築費 建築雑費 引水管据付費 配水管据付費 建築事務費 合計 | 59,459.563 1,145.309 14,346.026 29,900.060 10,123.975 43,047.080 65,198.013 18,427.938 241,647.964 |
収支 | 4,563.746 |
鉄管陸揚場