滝野組と共に見逃せないのは、海運資本、船舶への石炭、水の供給から出発した佐々木市造である。佐々木組は、函館以上に、室蘭港で大活躍する。明治末から大正、昭和にかけ、ステベ業界を栗林資本と二分する大勢力であった。佐々木組は、当初、函館港で水の供給業者であった。佐々木市造(初代、2代)の伝記は、室蘭地方史研究会発行の室蘭港湾資料第7集『室蘭港のパイオニア』にある「佐々木市造伝」に詳しい。
先代佐々木市造は、羽後国(秋田県)の農家に生まれ安政6(1859)年10月、箱館に来た。「開港したばかりの箱館港に出入りする外国船に飲料水供給業を企て、これが当たって事業として隆盛をきたしたという」。飲料水売込業は、父の常吉が始め、明治2年、市造がこれを継ぎ、「のちに運送業も兼ねて人夫らと一緒に仕事に打ちこんだらしい」と記され、それから5年ののち、400石の昆布を中国に運送を請負い風波のため船が沈没して文無しになったとされる。『北海道立志編』第2巻の佐々木市造伝には、違うニュアンスの記事が見られる。すなわち、明治7年「偶々支那商船の昆布運搬を受負い、昆布四百石を塔載して支那船に航するの途風波の為め艀船の沈没を来し……」とある。これによると、函館港内で艀運漕業を行ったことになる。ステベの一種、艀運送である。どうやら、この方が、納得できる。この時の処置がよかったので、かえって「大に内外汽船の信用を博し……」、運漕業繁昌したが「再び岩内炭坑に失敗し明治十三年に至る迄一起一伏」とあるのも、見逃せない。佐々木市造(2代目)は、岩内の船たき用石炭(バンカー)運送に関係した経験を持つからである。18年、日本郵船の専属となって函館ステベの代表者の1人となる。しかし、この時の佐々木組は、船用炭を中心とした石炭取扱専門のステベとして、産を成したのである。蒸汽船には燃料としての石炭(バンカー)と飲料水が必要欠くべからざるものであることはいうまでもない。岩内の茅沼炭鉱の石炭は、函館に運送され、販売されたが、明治13年、札幌手宮間、同15年札幌-幌内鉄道が開通し、幌内炭鉱の石炭が本格的に販売されるに及んで、茅沼炭鉱は次第に衰える。
2代目佐々木市造の「岩内炭鉱に失敗」した原因が何であるかは審らかにしえないが、失敗するしないに拘わらず、佐々木市造が、石炭ステベの北海道の創始者であり、先覚者であったことに変わりはない。幌内炭礦を中心とした北炭という新興大炭鉱マニファクチュアが、石炭ステベとしての佐々木市造を深く信頼したのは当然であろう。明治25年岩見沢、室蘭(輪西)間鉄道が開通し、いよいよ室蘭港が、幌内炭の積出港となるに及んで、誰が石炭ステベとして指名されるかが問題になった。この時、室蘭運輸組(栗林等地元業者)と佐々木市造、それに小樽の鈴木市次郎が、それぞれ一手請負を競争し、結局、佐々木市造にきまったのである。
室蘭港の石炭積出量が、最初の年間5、6万トンから34年には30万トンを超すまでに急成長するに及び、地元の栗林五朔(栗林資本の創立者)が台頭する。明治31年栗林は、北炭の石炭積出し請負食込みに成功する。仕事は佐々木は海(艀組)、栗林は陸(台車組)作業にわかれる形になったが、以来、明治全体を通じ、この両者は激しく対立した。さらに明治35年、釜石製鉄所への北炭の石炭積込みに楢崎平太郎が割込み、佐々木、栗林、楢崎3者の主導権争いが激化する。明治年間は、佐々木がリードしたと考えられるが、その理由は2代目佐々木市造が、函館で日本郵船の運漕店を託された時、自ら造船所を設けて艀を50余隻新造するなど、艀運漕業界に卓絶した力を持っていたからである。
船たき用炭は、蒸汽船が次第に大型化するに従い、その量も大きくなる。函館海運株式会社社長木下宏平によれば、大型船2000トン級の蒸汽船が船舶用に1回に積み込む石炭の量は300トン、水はその半分の150トンくらいという。明治大正時代、飲料水運搬専門の水艀が、盛んに活動していたという。この飲料水は木箱の大きなものに入れ、ポンプで供給していたという。平成元年6月現在、函館港にこの水艀が2隻残っていると木下はいう。佐々木組で注目したいのは、バンカー(船たき用石炭)専門のステベとして、日本郵船および、のちの国鉄の青函連絡船の船たき用石炭運送も扱っていたということである。