初期の通船の実態

593 ~ 594 / 1505ページ
 汽船が沖まりし、定期船が走り、貨物のみならず、旅客も運送する以上、旅客を運送する小船も必要となる。通常、通船と呼ばれるものがそれである。
 しかし、通船は、明治の始め、艀と同一視されていた。また和船を貨物専用船、旅客船用船に分けて考えていなかった。明治6年の、布告第8号「港内取締規則」には、船主がその住居の地区、すなわち定繋港の港から他港への往復の際、その港の船改所またはその筋の役所より到着港船改所あて添状を持参することになっていた。その出帆免状には、船名、種別、積石数、乗組人員、積荷の他に船客の有無などが必要記載事項となっていた。
 もっとも、この「港内取締規則」は明治8年2月廃止、「国内回漕規則」に代わるが、これは、「商船甲港ヨリ乙港ヘ向ケ出帆ノコト」に関する規則で(『函館税関沿革史』)積荷目録を問題としている。ただ、この規則の第6条に「定繋船ヲ除クノ外諸商船港内ヘ碇セハ第十五条ノ通リ碇税可相納事。但五十石未満ノ商船、小廻船、艀、漁船ノ類ハ碇税ヲ納ムルニ不及ト雖モ、無証印ノ船有之時ハ本年第二一号布告ニ照準処分スヘキコト」とある。ここに、艀船が漁船と並んで主として、貨物船として考えられている。
 その第11条に、「通船」が出ている。「従前、通船無之土地ヲ願ノ上、新タニ掘割運輸ノ便ヲ開キ候者、掘割入費支消ノタメ、年季ヲ定メ、通船ヨリ口銭等取立候類ハ此ノ規則ノ例ニアラサル事」とある。ここに明白に、通船の概念、すなわち、堀割工事などの人夫運送用の船という規定が出ている。公式文書の初見は、『函館税関沿革史』に関する限り、これのようである。
 函館港は、埋立工事など、維新前から港湾改修工事をしていたから、この種の港内工事人夫運送船のたぐいは、存在していたと思うが、そのための専用業者が存在したかどうかは不明である。明治13年10月7日の「函館新聞」に次の記事が見える。
 
近頃艀通船には、不当の賃銭を貧り、中には一人に付一円五十銭も取る者がある由にて、つい其の趣きが其の筋のお耳に達せしに付、此の程、艀通船世話係岡村小三郎、宮路助三郎の両人を呼出し以来篤と注意する様いい渡されし処、両人は夫々通船の者等に説諭せしかども、両人の説諭位では中々聞入ねば、止を得ず両人より其旨を申し立て何とか其の筋に於て取締規則を取設け下され度旨出願せり

 
 函館港湾運送業、艀業の祖とされている岡村小三郎が、宮路助三郎と共に、艀通船双方の世話係りというのは、誠に興味あることで、明治13年には、一応、艀は荷物船、通船は人間の運送船程度の区別は通念として存在していたが、艀業の代表者が通船をも取りしきっていたわけである。ということは、双方が、はっきりと分化していたわけではないと考えてよい。明治14年4月26日の「函館新聞」に次の記事が見える。
 
当港内に船戦争が始まったというから、ソレ大変と第一陣に飛いだしたる探訪隊が帰っての注進によれば、例の通船(かよひせん)の葛藤なるよし、此の通船の仲間内に一定の規約ありて互いに勝手な事がならぬ筋に約束をきめ、一手は桟橋の際、一手は三菱社の前と両処に分れ汽船入港ごとに互いに交替して人載(ひとのせ)に出る例なるが、この外にまた脱走組と称うる一手ありて更にこれ規約をふまず勝手な事をするとかにて、互いに腹工合悪しき矢先へ、さる二十三日の朝、東京から秋津洲丸が入港し、此度は桟橋際の通船が出る番にあたり早々支度して同船へ漕附しに、早くも脱走組が先んじて十余艘の小舟を寄つけ盛んに客を乗せ居たるに驚きつつ……

 
 という騒ぎであった。
 この記事を見ると、通船は、汽船の旅客用ボートで、「かよいせん」と呼ばれ、桟橋組と三菱社前組と、たまり場を別にし、外に脱走組なる組があること、この脱走組が10数隻の小舟を支配していたことがわかる。