この官倉が、のちの営業倉庫と化した例を次のように述べている。「北海道では、旧幕時代から蝦夷地備米と称せらる制度があったが、明治年代に入って開拓使は、各地に米穀の常備倉を増強している。其の内、函館豊川町に新築されたものは、煉瓦造であって、当時の先端的建築水準を示すものとして注目に価する。此の倉庫は、米一万石の収蔵を目的とし、桁行十五間、梁間六間の九十坪の倉庫四棟、計三百六十坪を煉瓦造で新築すべく、明治五年四月から準備に着手された。設計及び施行を引受けたのは函館在住の池田栄七、煉瓦は、開拓使が経営する茂辺地煉瓦製造所の製品を使用することになった。処が、明治六年暮、三棟の煉瓦積を了え越年した処、寒気で煉瓦表面が剥落する始末になったので、残り一棟は、煉瓦に改良を加えて七年七月着工、九月にこれを完成した。そして、前記三棟も、八年になってから同一工法で積直して再建築した。この倉庫は、明治二十三年函館区に払下げられ、其の共有財産となったが、二十五年八月入札により民間に貸与することになった際、安田善次郎が落札し、当初釧路の硫黄山の産物を貯蔵していたが、三十二年に至り払下を受け、同年六月から営業倉庫としている」(前掲書)。