明治30年代の貧弱な施設

652 ~ 655 / 1505ページ
 明治33年、2万7183坪を埋立てた函館区が、函樽鉄道函館駅の場所を提供した。函樽鉄道の経営主体である北海道鉄道会社は、あらかじめ、現在の若松町の埋立地をゆずり受け、ここに、函館駅を建設する予定であった。しかし、現在の函館駅の地に、駅ができたのは、明治37年7月1日である。明治35年12月10日、函館本郷間に、始めて鉄道が開通した時、駅もまたできたわけだが、その時は函館駅は現在地ではなく、函館市海岸町の公舎街(海岸町旧鉄道官舎街、明治37年12月10日、函館駅発祥の地の記念碑がある所)に建設された。現函館駅から、1、2キロメートル離れている。この地点は、いわば、内陸部で青函連絡船の桟橋と大分離れて建てられており、小樽~函館間鉄道の終端駅の役割を果すにすぎなかった。
 本来、函樽鉄道は、青森まで伸びた東北線との連絡のために建設されたのであり、しかも、本来的には、旅客鉄道のはずなので、駅と桟橋が、距離的に離れているのは、趣旨に沿わないことである。海岸に駅が立地し、桟橋が駅と結びついて立地しなければならなかった。しかし、それができなかったのは、函館区民の反対があったからである。
 函館駅開業80周年記念協賛会発行の『先駈~函館駅八〇周年の歩み~』は、次のように、そのいきさつを説明している。
 
北海道鉄道会社は、亀田駅開業前に函館区から現在の若松町の埋立地を譲り受け、ここに函館駅を建設する予定であった。しかし、一部区民が区内に鉄道を敷くと交通に危険だとか、種々敷地に関する利害の打算から、附和雷動するなどがあったため、結局、若松町に駅を作らず、旧亀田村に近い海岸町に駅を作ったといういきさつがある。この区民の仕打ちにふんがいした北海道鉄道会社側では、駅の入口を反対側にし、そのうえ枕木の垣をめぐらして、いやがらせをしたという話まである。元函館市長、斉藤与一郎の伝記によれば、函館から徒歩又は人力車でかけつけても、くるり一回転しなければ駅に入ることができず、時々汽車の出発に間に合わず、垣の間から「陸(おか)蒸気の船頭さん待って下さい。」と呼ぶほほえましい光景が見られたものだといっている。同じような事が本郷駅(現渡島大野駅)にもあった。当初函樽鉄道の設計当時は、本郷村を経て大沼を通るよう計画されていたが、本郷村の大反対に遭い、止むなく市渡村を通るようになったのだといわれる。鉄道側としては、本郷を経て大沼に至る勾配が緩やかで、けん引力を増すことができることから、本郷村に理解を求めた。しかし当時の農耕に従事する住民は、鉄道の恩恵を知る由もなく、陸蒸気の起す振動に対する警戒心、つまり畑地がひびわれて作物に悪影響するとか、煤煙のため稲などの開花結実に妨げがあると考え、村の中心地に駅を建て汽車を通すことに反対しきったわけである。

 

明治37年開業の函館駅

 明治37年7月1日、現在の函館駅が開業したので、それ迄の海岸の函館駅は、亀田駅と改称された。しかし、本格的な函館駅は大正3年に、始めて建設された。それは、東北線と函樽線とを連絡するため、若松町に桟橋を新設し、これにくっつけて駅を作ったものであった。
 国鉄青函船舶鉄道管理局発行の『青函連絡五十年史』は、次のように述べている。
 
明治三五年十二月、亀田駅開業当時はすべて東浜町の桟橋に上陸した旅客は、ここから鉄道馬車か或は徒歩により来駅した。当時は、まだ鉄道がそれ程発達していなかったので、連絡中継客の数は微々たるものであった。明治三七年七月函館駅開業、同年十一月駅構内海岸に桟橋と荷揚場が設置されたが、艀が横付になる程度のもので連絡船との中継旅客輸送路は、東浜町の桟橋及び函館駅の桟橋の二つになったが、当座は依然として東浜町の桟橋が利用されていた。駅舎は規模に於ては亀田駅と大差なく乗降場の上に設備され、駅長室と待合室からなる平凡な木造の平屋で、古鉄板をあちこちに張りつけた粗末なものであった。位置は現在三〇米程街寄りで、やや東に寄っていた。明治四〇年十月、船車連絡客のために本屋附属船車連絡待合所を開設し、本屋と船車連絡待合所との間に集札口を設けた。大正二年の大火により、駅本屋ほか運輸事務所等構内の建物は殆ど烏有に帰した。駅舎及び連絡待合室は間もなくバラックで復旧されたが、これを機会に連絡待合所を桟橋埠頭に新設し、同時に明治四五年以来計画された函館駅構内の大改良工事を早急に実現することになり、大正四年六月一日、桟橋埠頭に連絡待合所が新設され、六月十五日、桟橋埠頭から列車が発着することとなった

 
 さて、明治38年9月14日、奥羽線全通、いよいよ青函間航路が重大化する。そこでまず、東北線をもつ日本鉄道会社が、青函航路を持っていた日本郵船会社と連帯運輸を開始した。39年10月1日には、日本鉄道会社が、青函航路直営目的でタービン式汽船2隻建造を英国に発注している。これが有名な比羅夫丸、田村丸である。39年11月1日、政府は、この日本鉄道会社を買収し、翌40年7月1日に、北海道鉄道会社を買収、北海道鉄道管理局を設置した。
 青森側では、日本鉄道会社は、日本郵船と共同で、すでに明治31年11月、青森駅と隣接した場所に、荷揚場斜段石垣および波止突堤総延長57間の船入澗を5万円で新設していた。ここに、本州側の日本鉄道会社、北海道側の函樽鉄道が、国有鉄道という同一経営体に属することになり、明治41年、待望の新鋭タービン船比羅夫丸(1481トン)田村丸(同)が日本に回航されてくる。比羅夫丸の横浜港到着は、41年2月1日である。
 明治39年の、鉄道国有化が、函館の桟橋を駅に隣接させるよう、条件づけたのである。とりあえず、明治40年、船客のため、函館駅浜側に待合所を設け、その中間に集札口を設けた。その前に、明治37年11月、桟橋と荷揚場を新設していたが、これは艀船が横付になる程度のものであった。これを小桟橋といった。以下は『青函連絡船史』の記述である。
 
連絡施設は極めて貧弱なものであったから、本船への乗下船、荷物の積卸しは艀作業とならざるを得なかった。連絡船は、青森港では船入北方五〇〇~六〇〇米沖合いに、函館港では船入西方五〇〇~六〇〇米沖合に投錨、碇したので、駅に下車した旅客は手荷物を携えて乗船場に向い、そこで艀に乗って、波に揺られながら本船まで運ばれたのである。夏季の好天の際は、涼味津々たる情景に旅愁を慰めることができたであろうが、風雨強く、波の高い秋から冬にかけての悪天候時には、波の飛沫を浴び、船酔いに苦しめられたという。又、一、二等客は、小蒸気船に乗ってタラップを乗下船したが、三等客は荷物と同様、艀から小さな舷門を通じて乗降するため、婦人、子供、老人などは殊の外難渋し、特に吹雪の激しい冬期には、今日、想像も出来ぬ程の苦難をなめた。海陸の係員が必死の努力で旅客を保護しても、本船に乗り移る際、激浪のため海中にふり落されるものもあったという。一方貨物の方も同様で、例えば青森から函館への連絡貨物は、青森の貨車→連絡ホーム→艀→本船→艀→連絡ホーム→函館へと合計六回の積替が行われ、平常、作業が順調な場合でも、青森、函館における連絡継送時間は最少限約十二時間、長いものは二四時間を超えることも珍しくなかった。又本船と艀船との積替作業は露天であるため、天候の支障を受けて、貨物を停滞させ、或いは降雨、激浪等による濡損、積替による破損、滅失などの事故を起し、鉄道及び荷主が蒙った損害も少なくなかった