すなわち、20年から27年までの輸出入総額ををみると、22年ないし24年を除き、輸出額は、98~99パーセントを占め、40万~60万円台を上下してきたが、28年から輸出入がともに急増し、33年には500万円に達して、輸出入がほぼ拮抗するようになっている。このような状況は、第9章第4節に述べているように露領沿海州、カムチャッカ半島へ出漁船が、函館から多数の食糧や漁業資材を積込み、現地から大量の海産物(塩蔵サケ・マス)をもち帰るようになったことによるもので、いわゆる「漁業貿易」の増大によってもたらされたものである(図6-1)。
まず20年以後の輸出品の品目構成をみると、明治前期と同様、海産物が中心で、なかでも昆布は輸出総額の70~80パーセントを占めている。しかし、24年頃から海産物は、60パーセント前後の水準に落ち、32年以後には、輸出額が増加するにもかかわらず、50パーセント台に低下している。このことは、いうまでもなく、海産物以外の輸出品が増加したことによるが、なかでも硫黄の輸出(対アメリカ・オーストラリア)は大きな比重を占め、34、5年頃から、総輸出額の30数パーセントを占めている(図6-2)。つまり、明治後期の函館港は、開港以来の、海産物をはじめとした第1次産品の輸出に特化した貿易港としての特徴を維持していたのである。
図6-1 函館港の貿易額推移
『函館市史』統計史料編により作成
図6-2 函館港普通貿易・主要輸出品金額
『函館市史』統計史料編により作成
海産物の輸出では、先の図6-2にみられるように、20年から増加し、23年には68万2000円になった。だが、24年から29年には、昆布の大幅な減少により、30万ないしは40万円台に落ち、30年以後は昆布の回復とするめいか、その他海産物の輸出が増加して、34年に100万円台、38年には141万5000円に達している。そしてこれら海産物の主な輸出先は清国であり、函館港の海産物貿易は、明治後期においても清国向けの海産物、特に昆布輸出に大きく依存していたのである。
次に輸入額をみると、20年代以降においても、22年~24年に函館の水道工事にかかわる鉄管類、また北海道炭鉱鉄道会社の鉄道用レール、機械などの輸入が増加しているものの、20年代前半までの函館港の輸入は、前期と同様、全く低調であった(前出図6-1)。
表6-32 函館港の漁業貿易(輸入額)の推移
年 次 | 塩蔵サケ ・ マス | 魚 粕 | 合 計 | |||
明治22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 | 1,877 1,854 6,768 5,748 19,375 21,009 43,455 142,871 346,732 415,687 844,081 1,445,348 762,663 854,135 | 1.6 0.3 3.1 47.5 79.7 37.9 27.7 43.3 82.6 50.9 49.5 48.8 32.0 30.9 | - - - - - - - - - 2,259 699,080 1,026,508 1,091,454 1,410,627 | - - - - - - - - - 0.3 41.0 34.7 45.9 51.1 | 1,877 1,854 6,768 5,748 19,375 21,009 43,455 142,871 346,732 417,946 1,543,161 2,471,856 1,854,117 2,264,762 | 1.6 0.3 3.1 47.5 79.7 37.9 27.7 43.3 82.6 51.2 90.4 83.5 77.9 82.0 |
左欄:千斤、右欄:輸出総額に対する比率
『函館市史』統計史料編による.
しかし、26年頃から輸入が増加しはじめ、27年に5万5000円であったものが増加の一途を辿り、33年には296万円に達している。このような増加は、前に述べた露領漁業の塩蔵サケ・マスの輸入によるもので、22年には1877円で総輸入額の僅か0.3パーセントに過ぎなかったが、その後は年々増加して30年には34万6700円、総輸入額83パーセントを占めるに至り、33年には144万5000円と大幅に増加した。しかし、32年以後は、魚粕(ニシン)の輸入が急増し、塩蔵サケ・マスの構成比は50パーセント前後に落ちている(表6-32)。ともあれ、25年以後における函館港の貿易は、昆布を主体とした対清国貿易と露領漁業による「漁業貿易」によって発展を遂げるのである。
ところで従来は北海道ならびに東北地方における開港場は函館港のみであったが、20年代になると道内各地も開港されるようになる。明治22年に小樽、翌23年は釧路、27年に室蘭がそれぞれ特別輸出港となった。これは特定物品の輸出のみを認めるという制限付きのものであったが、32年には小樽、釧路が一般開港場となり、室蘭もこれに続いた。それまで輸出入は函館に集中していたが、道内各地の開港により輸出の拡散傾向が生じた。